バージニア州で暮らす夫婦の愛犬、フロリダで見つかる

http://www.excite.co.jp/News/odd/E1267235443816.html
[米フロリダ州デランド 25日 AP]
 バージニア州在住のホルトさん夫婦の愛犬「ディーコン(ジャーマン・シェパード)」が昨年末から行方不明になっていたが、最近になって自宅から数百マイル離れたフロリダ州で発見された。
 
生後18ヶ月のディーコンは昨年12月に行方不明となり、夫妻は「もう死んでしまっているかも」とあきらめていたという。警察の発表によると、今月18日、フロリダ州デランドのコンビニの従業員がディーコンと別の犬が道路を横切っていくのを目撃し、動物管理局に連絡した。
 
その後間もなく管理局員がこの2匹を保護したが、ディーコンにはマイクロチップが埋め込まれていたため、ホルトさん夫婦の愛犬であることが判明した。夫妻は今週末にデランドを訪れ、ディーコンを引き取る予定となっている。
 

水色はMizの色に非ず

 
水色というのは、何故青いのだろう。
水色という言葉を素直に解釈すれば、水の色。では水は何色をしているのかと、蛇口をひねってみれば、出てくる水は無色透明だ。
水色が水の色ならば、無色透明であるべきなのではないのか。
それが何故、あの淡い青い色なのだろう。
 
そんな間の抜けた質問を投げかけてみれば、おおよそ返ってくる返事は、
「海の色は青いからだ」
「湖の色だ」
「川面に映った空の色だ」
そういった類だろう。
だから重ねて質問をする。
「では何故、海色ではないのか」
「湖色ではいけなかったのか」
「川色ではなく、水色と名づけたのは何故なのか」
常識ある人ならこの時点で形式的な笑みを浮かべて、
「さあ?何ででしょうね?」
関心のある様子を装いながら、内心で呆れることだろう。
こういうことに興味を持つのは、暇人か変人か言語学者くらいなものだ。
 
水色という言葉がある以上、その言葉が生まれた経緯は間違いなくあるわけで、そのルーツをたどるのは一種のマニアックな推理ゲームのようだ。
色としてはごく身近な色である。そのあたりで色鉛筆のセットを適当に買ってきても、必ず入っているような基本的な色だ。
時に空色と同一視されることもある。確かによく似ているが、もしも同じものだとしたら、何故空色という言葉一つで済ませなかったのか。わざわざ水色などという、不可解な言葉を生み出さなくても、空色ならば一目瞭然、青空の色だと解かるわけで、こんな意味不明な文章を書かなくても済んだというのに。
言葉は必要に応じて生まれるものだ。名づける必要がなければ誰も名づけはしない。水色を水色と名づける必要があったのはどんな人々か。
例えば自分の生活の中で、水色をいう言葉を使う必要のある場面を思い浮かべて見る。 水色、水色、水色。
どう考えてもそれほど多くはない。せいぜい水色のものを指し示すときに、
「その水色のヤツ」
とか何とか言う程度だ。仮に水色という言葉が存在しなかったとしても、
「その薄い青のヤツ」
で代用出来てしまう軽い使い方だ。
一体どんな状況において、空色でもなく薄い青でもない、水色という言葉が必要だと言うのだろう。
 
水色という言葉が生まれた時代はいつなのだろう。
ちょろりと調べてみると、平安時代にはすでに存在していた様子だ。なかなかに古い。江戸時代あたりに生じた言葉なら、意外と正確なルーツがわかるのだが、平安時代となると簡単にはいかない。
平安時代において、水色のものがどれだけあるだろう。
湖や川、海、空はもちろん平安時代にもあっただろうが、先に述べた疑問通り、湖色や川色ではいけなかった理由がわからない。
農業においては水は重用だったと思うが、水路を引いたにしても、井戸を掘ったにしても、水桶で運んだにしても、いわゆる水色は登場しない。
水色が登場しそうなのは絵画だろうか。絵巻物等で水色が使われただろうか。もちろん現在のような鮮やかな水色ではないが、遠景の山などは水色に近い色で描かれているものもあるようだ。
絵画ならば、色の名前にこだわる理由もうなずける。薄い青でも空色でもない、水色という色が欲しい、こだわりを持つ絵師ならばそのような欲求を持ってもおかしくはない。しかし残念ながら、平安時代の絵画で、水を描いているものを見つけていないため、水色が果たして水の色として使われているかどうかはわからない。
 
もう一つ、水色の登場するものがある。
染物である。
藍染は青く、染める際には水が必要である。
少しばかり調べてみただけでも、染物の薄い色こそ水色の語源だとする説がちらほら垣間見える。平安時代当時は藍染めの色のことを縹色と呼んでいたそうだが、縹色の濃淡に応じて、いくつか呼び名があり、薄いものを水縹色とも言ったという。
この水縹色が水色になったというのだが、それでもなお、何故水なのかがわからない。
藍染は確かに染料を溶かした水を使って布を染めるが、その水の色は水色ではない。
染め色の濃さは布を染める回数でコントロールするから、色の薄いもののことを水色と呼ぶ理由がない。
しかしながら、染物の色というのはどうも水色のルーツとして一番しっくり来るのである。このあたりはもう根拠や論理的推察ではなく、感覚的なものだ。
 
そこで藍染よりさらに古く、染物のルーツをたどってみた。
藍染の前身はツユクサによる染物である。
そもそも縹色というのは、もともとツユクサによる染物の色のことを意味していたらしい。このツユクサ染め、藍染ほど色が定着せず、水につけるとすぐに色あせてしまうという。
どうやらこのあたりが水色のルーツかもしれない。
 
ツユクサで染めた衣類の色のことを縹色といい、その薄いものを水縹色という。薄い、というのは、水によって色あせた状態ではないだろうか。
だから色あせた青い色を、水縹色と呼んだ。
海でも湖でも空でもなく、水によって色あせた青、それが水色なのではないだろうか。

友達(2)

大曽野が何をどう思ったのかはわからない。
過去の親友達があまりに懐かしすぎて新しい友達が出来ないとぼやいていた彼の、どうやら私は友達になったらしかった。
今まではあまり顔を出さなかった生徒会室に、大曽野はやってくるようになった。
私は嬉しかった。
大勢の同級生の中で私だけが認められたような気持ちもあったし、生徒会の活動を活性化できたという思いもあった。
しかし本当はただ、馬鹿話だろうが真面目な話だろうが気兼ねなく語り合える相手が出来たことが、純粋に嬉しかった。
気が合う、というのとはまた少し違った。私の意見は必ずといっていいほど否定されたからだ。
「いや、それはちょっと違うな」
というのが、大曽野の自論が始まる前の決まり文句だった。
その後に続く彼の意見は、必ずしも全て賛同できるものとは言えなかったが、少なくとも彼なりの視点で十分に考えられ、練りこまれた意見だった。
考え無しに思いついたことをポンポン言う口だけ番長な私の意見では、とても太刀打ちできないくらいの合理性があった。
私はたいていの場合、彼の意見に打ち負かされて、それでも自分の権威だけは取り繕おうと必死になって、
「うん、それも一理ある」
などともっともらしくうなずいていたりしたものだ。
彼はそんな薄っぺらな私に気づいていただろうか。気づかないはずはなかったと思うが、それでも彼は私の友達でいてくれた。
「理解してくれる人が少ないんだ」
後年、彼はそう言っていたそうだ。
その点では、私は確かに彼の理解者ではあった。独創的な意見を面白いとも思っていたし、行動力に敬意を抱いてもいた。
自分なりの視点で物事を捉え、世の中の多くの意見とは異なる答えを見つけるやり方、失敗を恐れないでとにかく行動してみて、身をもって学ぶ態度、どちらも大曽野との付き合いの中で私が学んだことである。
私からすれば、彼には多くの見習うべき点があり、自分を成長させてくれる最高の友達だったが、彼は一体何を思っていたのだろうか。
ただ私が理解者だったから、いろいろな話をしてくれたのだろうか。


大曽野は幼い頃に父親を亡くした。
物心つく前のことで、父親の記憶はほとんど無かったそうだ。
葬儀の日、大勢の人が集まった中で、
「今日はお父さんの誕生日だ!」
はしゃいで見せて、参列者の涙を誘ったのだと、笑いながら話していた。
母親一人では育てていけない状況だったのか、彼はその後里子に出された。
里子先が伊賀の里だったそうで、苗字が一時期ズバリ伊賀だった頃もあったらしい。
それが縁で忍者が好きで、先日の剣道大会の自己流の構えも、忍者の剣法に基づくものなのだそうだ。
伊賀の里から親戚の家を経て、最終的には再婚した母親の元へと引き取られた。
その時までに苗字は4回も変わったとかで、引越しもしばしばだった。
仲の良い友達が忘れられなかったのにはそういう事情もあるのだろう。転校が多くてはなかなか友情は深められない。
「親父のことは大曽野さんって呼んでるんだ。人前では親父って言うんだけどさ」
複雑そうな家庭の事情がちらほらと聞こえてきて、彼がいつも納得のいかない表情をしているのは、そういう理由なのだろうかと思ったこともあった。
のちにわかったことではあるが、彼は決して家庭環境を苦にしてはいなかった。
もちろん、小さい頃からたびたび環境の変わる生活には、つらいこともあったろうとは思う。友達がなかなか作れなかったのもその一つだろう。
しかし、彼が表情を曇らせる理由は家庭の事情ではなく、彼の性格ゆえだった。
気になったことは納得の行くまでこだわるという、職人気質のためだったのである。
この気質は、頑固さを伴う。それは彼が誤解される原因でもあった。


陸上部出身の教育実習生が、体育の授業のためにやって来た。
面倒見が良く、熱心なスポーツマンタイプで、生徒の気を引くような面白い話も出来る、頼れるお兄さん的な実習生だった。
授業は面白かったし、性格的にも教師向きだと私は思ったが、そう話すと大曽野は、
「いや、それは違うな」
と例によって否定した。
よくよく話を聞いて見ると、大曽野は1年生の頃は陸上部に所属していたらしい。
しかし、どうも陸上部の活動に納得がいかなかった。何が悪いというわけでもないのだが、自分には合っていないと思っていたようだ。
そこで辞めることを考えていたのだが、そこへやってきたのが先ほどの陸上部出身の教育実習生だ。
「お前は陸上部なんだから、きちんとしないと駄目だ!」
と叱咤されたらしい。
なるほど、熱血なあの実習生が言いそうな台詞ではある。
「陸上部だから、という理由が納得できなかったんだ」
というわけで、実際に実習生に質問したそうだ。陸上部じゃなくてもきちんとしなくちゃいけないんじゃないですか、と。
熱血実習生、それにキレてしまった
お互いに論点がすれ違い過ぎているのだが、お互いそれに気づいていない。
実習生にしてみれば、思い入れのある陸上部の後輩達には、他の生徒の模範となって欲しいのだろうが、大曽野にとっては思い入れなど無く、ましてや模範となろうなどという気持ちも無く、それを素直に口にしてみたら、
「なんて反抗的な奴だ!」
と頭ごなしに叱られて、それがまた納得いかず・・・・・・と悪循環にはまってしまったわけだ。
実習生の気持ちくらい察してやればいいのに、とは思ったが、大曽野が珍しく本気で嫌っていたので、何も言わずにおいた。

友達(1)

高校ではどういうわけか生徒会活動にのめり込んだ。
そもそものきっかけは一年生のときにクラス委員になったことで、私自身はどういうわけでクラス委員なんぞになったのかは覚えていないのだが、多分フレッシュな興奮に流される形で、その場の勢い以上の動機はなかった。
何事も生徒の自治を重んじる校風で、生徒会活動の一環として、リーダー研修会なるものがあった。泊り込みで生徒会役員が集まって討論するという、クラブ合宿の生徒会版のような行事だった。
なにしろ今まで生徒会活動なんてしたこともない私は、堂々と討論を繰り広げる先輩達の姿に圧倒されるとともに、憧れた。
言葉は悪いが、リーダー研修会が、自治活動が重要なものだということを洗脳する場だったとしたら、私に関しては抜群の効果があったと言える。
一年後には生徒会副会長に立候補した。


二年生の春、生徒会副会長としてリーダー研修会に参加することになった。
初日は剣道大会と重なっていて、剣道大会の参加者はあとから私が引率して研修会に合流する段取りだった。
私は中学時代には剣道部に所属し、一応有段者であったため、個人戦に出場した。
しかしながら剣道部員の猛者達に歯が立つはずもなく、敢え無く初戦敗退。リーダー研修会に参加する連中の試合が終わるのを、観戦しながら待っていた。


団体戦の決勝戦は、2対2のまま大将戦を迎えていた。
体育館は白熱戦に盛り上がるわけでもなく、次の試合でようやく大会も終わる、というだらけた空気のほうが強かった。
翌日は休みだったから、剣道大会の終わりはすなわち自由時間の始まりで、優勝の行方よりも、大会が早く終わるかどうかのほうが重要事項だった。
個人戦と異なり、団体戦はクラス対抗である。腕に覚えのある猛者達はみんな個人戦に出場するから、団体戦のほうはくじ引きで選出された名前ばかりのクラス代表達である。どうしてもやる気は今ひとつだし、初心者同士のただのチャンバラになることが多い。だから観戦のほうもそれほど熱がこもったりはしない。
大将戦は一方が面、もう一方が小手を取って、ラスト1本の勝負となったが、やはり緊迫感はなく、誰もが勝敗などどうでもよいと思っているようだった。
ところが、そんな空気の中で、一人だけ勝ちにこだわっている者がいた。
G組の大将、決勝戦の一方の選手である。
彼は突然、中段に構えていた竹刀を顔の高さまで引き上げ、八相に似た構えを取った。
おおっ、と観戦していた生徒達からどよめきが起こる。
剣道の授業では中段の構えしか習っていない。明らかに対戦相手は動揺していた。
そのまま八相に似た構えの選手は気合の声を上げて攻撃に出た。
垂れに付けた名札が正面から見えて、私はようやく気が付いた。
奇妙な構えのその選手こそ、私がこの後リーダー研修会に引率する同級生、大曽野だったのである。


駅まで歩き、バスに乗って研修会の宿舎に向かう間に、私は大曽野と話をした。
大曽野はたいして面白くもなさそうに私の話を聞いた。私の質問には面倒くさそうに答えた。
彼は監査委員で、生徒会の三役と同等の立場でありながら、今までまったく顔を合わせたことが無かった。真面目な生徒会役員として洗脳されていた私は、きちんと生徒会活動をするようにと、お堅いお説教じみた話をしたような気がする。大曽野が面白くない顔をしていたのも無理はない。
「小学校のときの友達とすごく仲が良かったからさ」
大曽野はため息混じりの口調で言った。
「それ以上の友達が出来ないんだ。昔の友達くらい理解してくれる人がいなくて」
これに何と答えたのかは覚えていない。
ただ、私にだって友達はいなかった。理解してくれる友人など、過去にさえいなかった。
剣道大会の話をした時は、大曽野は少しだけ楽しそうだった。
特に例の決勝戦の八相の構えについては、照れ笑いしながら教えてくれた。
「どうせ最後の勝負なら、自分の一番良い構えで行ってみようと思って」
八相の構えに似てはいるものの、そうではなく、自分で編み出した構えらしかった。
既存の型では、何かしら弱点やらデメリットがあって、どうにも納得がいかなかったのだそうだ。どう構えたら最も隙が無いか、攻撃がしやすいか、あれこれ悩んで考え出したのだとか。なんとも奇妙なこだわり方をする男だった。
そしてさらに、そんなオリジナルの構えを考え出すだけでなく、剣道大会の場で実践にうつしてしまう行動力もまた持っていた。
あの決勝戦は、そんな彼の性格がよくわかる出来事だったと言える。
それはその後20年にも渡る腐れ縁の中で、何度と無く思い知らされる大曽野の魅力であり、困った一面でもあったのだ。

BRINGERS(1)

mizcreid2009-05-31

軽い眩暈に似た不快感を伴いながら、シャトルは亜光速から抜け出した。
客席の窓を覆っていたシャッターが軽やかに開くと、銅色の地表を持つ星が視界の下半分を覆っていた。
「まもなく当機はアイドネウス・スター・ポートへの着陸軌道に入ります。到着予定は1425、およそ一時間後でございます」
極端に飾ったアナウンスの女の声は、窓外の星の姿とはまったくかけ離れていた。ブラッドは窓の外をぼんやりと眺めながら、巨大な鉄屑のようにも見えるこの星に不思議な親近感を覚えていた。
遥か遠い昔には、アイドネウスは星系の第九惑星と考えられていた。当時は亜光速エンジンどころか宇宙空間を航行する船さえ無く、極めて精度の低い望遠鏡でしかこの星の存在を確認する術が無かった。不確かな観測データに基づく計算では、アイドネウスが惑星に似た公転周期を持っていることは確かめられたものの、惑星と呼べるほどの大きさを持っていないことまではわからなかった。
しかし当時の人々は新惑星発見というセンセーショナルな言葉に酔い、アイドネウスを九番目の惑星としてしまった。惑星には神の名をつけるという古代の慣習に従い、死者の国の王であるアイドネウスの名を付けたのである。
すべてはアイドネウスの姿がはっきりと観測できなかったことによる誤解であるが、神話のアイドネウスの名が「見えざる者」に由来していたことは皮肉としか言いようがなかった。
実際のところ、アイドネウスは他の惑星の衛星よりもさらに小さい。
その事実が明らかになった途端、人々はアイドネウスを惑星の座から引きずり降ろした。言わばアイドネウスは惑星の中の落伍者だった。
今まで自分が所属していた場所から唐突に放り出される疎外感や痛み、ブラッドが共感を覚えるのは同じ落伍者としての経験かもしれなかった。
ブラッドは髪の伸び始めた頭を無造作になでて、ため息まじりに苦笑した。首都の養成所を離れてから半年が過ぎ、不適合の烙印を押されたことは忘れると決めていた。

シャトルは首都から小惑星帯を経由してアイドネウスへ向かう長旅の終点に近づいていた。
300席ほどの客席はほぼ半分が埋まっており、大半はブラッド同様、裕福とは言い難い服装の男たちだった。アイドネウスは開発途中の星で、訪れる者のほとんどは労働者である。多くの労働力を欲するアイドネウス政府は入港管理に甘く、犯罪者が法の目を逃れるために入り込むことも少なくなかった。
ブラッドもまた、出来ることなら管理の目を避けたい立場にあった。身一つで養成所を出て、身分を証明する物を一切持っていないブラッドにとっては、アイドネウスで人生をやり直す以外には選択肢は無かったと言ってもよい。
ブラッドはもう一度赤茶けた地表に目をやった。人の手が触れたことの無い広大な大地を持つ星は、新たなスタートに相応しく、好もしく思えた。
アイドネウスにはごく薄い大気しかなく、地表は凍りついた窒素とメタンに覆われている。メタンのオレンジ色のもやが、アイドネウス全体を銅色に見せている。ゆるやかに巨大な弧を描く地平線には、青みがかった大気の層が広がっていた。
その向こう側から、巨大な白い星がゆっくりと姿を現した。アイドネウスの弟星カロンである。カロンは氷に覆われた白色の星であり、大きさはアイドネウスの半分程度だが、アイドネウスとは二連星の関係にある。二連星であったことは、アイドネウスを実際よりも大きな星だと誤解させる一つの要因でもあった。精度の低い観測機器しかなかった時代、アイドネウスとカロンは溶けて一つに見えていた。
ブラッドはフィリス・ウェントワースの白い笑顔を思い出し、また一人苦笑した。アイドネウスがブラッドならば、フィリスがカロンであるはずがない。フィリスはいまだにあの養成所にいて、将来有望な「エレメンツ」だった。落伍者のブラッドとは違う世界の存在である。
軽く頭を振って無意味な感傷を追いやり、ゆっくりと迫りくるカロンに目を向けた時、ブラッドは奇妙な黒い点を見た。
ちょうどアイドネウスの青い大気の層の端、カロンの中心あたりに見えるその黒い点は、みるみるうちに大きくなり、その存在に気づいた何人かの乗客から、たちまちにざわめきが機内に広がった。
回転しながら迫ってくるその物体は岩の塊だった。ブラッドの目にはその岩石がまっすぐにシャトル目掛けて飛んでくるように見えた。
機内アナウンスのチャイムが鳴った。
「ただいまより着陸軌道に入ります。皆様シートベルトの着用をお願いいたします」
相変わらず気取りが鼻に付くその女の声は特にあわてた様子もなく、岩石の存在はシャトルの航行には何ら問題もないのか、乗客の何人かはカメラを向けてはしゃいだ声を上げていた。
ブラッドの前に座っていた男が小さく舌打ちして、乗務員の呼び出しボタンを押した。
背後からでは様子は見えなかったが、乗務員がやってくるまでの間、男がコツコツと指で肘掛を叩いている音から察するに、イライラしているか不安が募っているように思えた。ブラッドはシャトルに乗り込むときに見た男の印象を覚えていた。大柄ではないが引き締まった身体で、無駄のない動きをする狼のような男だった。歳はブラッドよりも少し上だが、生きていくための経験は十倍も積んだ風格を感じた。シャトルの近くを岩の塊が飛んでいるというだけで怯えるような男には見えなかった。
乗務員が近づいてくると、男は立ち上がって、
「完全に衝突コースだぞ。軌道計算をやり直せ」
岩石を指しながら低く言った。その間にも岩石は迫っており、今や表面のゴツゴツした様子までも見て取れる距離だった。
乗務員は岩石を見て明らかに顔色を変えた。男に返事をするのも忘れて内線通話機へとすっ飛んでいき、取り乱した様子で通話機に向かって何やらわめき出した。
男はそんな乗務員の様子を目を細めて見ていたが、窓の外に迫る岩石を振り向き、小さなため息をついた。そして自分を見つめるブラッドの視線に気づくと、
「間に合わないな。素人の船に乗るんじゃなかった」
ブラッドに向けて自嘲の笑みを浮かべた。
次の瞬間、横殴りの激しい衝撃が来た。

針聞書

ナマズ地震の話の中で「長虫」にたびたび言及したが、「虫」について面白い本がある。

『針聞書』 虫の知らせ

『針聞書』 虫の知らせ

  • 作者: 笠井昌昭,長野仁,ジェイ・キャスト,茂利勝彦
  • 出版社/メーカー: ジェイ・キャスト
  • 発売日: 2007/11/01
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戦国時代のハラノムシ―『針聞書』のゆかいな病魔たち

戦国時代のハラノムシ―『針聞書』のゆかいな病魔たち

戦国時代の針灸術書『針聞書』に図解で紹介されている様々なハラノムシを抜き出したもの。
今でも「腹の虫が鳴く」とか「虫の居所が悪い」とか、体内に「虫」がいるという概念が残っているが、その「虫」の図鑑である。
病の原因は腹の中にいる虫のせいだ、という考え方に基づき、その虫を退治するための針の打ち方を解説した秘術書だったのだそうだ。
この本に紹介されている虫を見ると、やはりヘビ、ウナギ、ヒル、ナメクジ、ナマズ系の謎生物どもで、「龍」と「長虫」と「ナマズ」はそれほど遠くない存在だという気がしてくる。

針聞書』については九州国立博物館のサイトに紹介があるので、「虫」の絵が見たいというだけならサイトへどうぞ。

ちなみにハラノムシのフィギュア付バージョンも販売されてるみたいw
ちょっと欲しい……w

続・ナマズと地震と要石

ナマズ伝承の発生時期

ナマズ地震の関連についてもう少し掘り下げてみる。

まず、ナマズ地震が結びついた時期について、鳥獣戯画がヒントにならないだろうかというアドバイスをいただいた。
鳥獣戯画鳥羽僧正覚猷の作と伝えられる古い絵巻で、成立は平安時代末期〜鎌倉時代初期。
年代に幅があるのは、実は作者が一人ではなく、様々な人の描いた戯画をまとめたものではないかという説があるためだ。
正式には鳥獣人物戯画と言い、その名が示す通り、動物を人間に見立てて人々の生活の様子などを描いたものである。
日本史上最古の漫画とも言われる。

この鳥獣戯画から何が言えるかというと、日本人の自然観というか、文化の根底にあるものを垣間見ることが出来る。
自然現象や生き物を人格化し、神や妖怪を作り上げる発想である。
ナマズ地震の現況とするのもこの発想に基づくものであろう。
従って、ナマズ鳥獣戯画の素材として不足はない。
実際、江戸時代の安政地震の際に流行した「鯰絵」の中には、コミカルにデフォルメされたナマズの姿を描いたものもある。

鳥獣戯画ナマズの描写はあるだろうか。
登場する動物を調べてみた。
わんこ、イノシシ、ウサギ、牛、馬、カエル、カメ、獅子、キジ、キツネ、麒麟、猿、シカ、ゾウ、タカ、トラ、ニワトリ、ネコ、ネズミ、バク、ハヤブサ、ワシ、ヒョウ、フクロウ、ヘビ、ヤギ、龍。
どうやらナマズの姿は無い。
ナマズと言えば地震を思い浮かべるほどに強烈な特性を持つナマズが、鳥獣戯画の題材として登場しないのはどういうことか。
考えられる原因の一つとして、鳥獣戯画が成立した時代にはナマズはまだ地震と結びついていなかったのではないかということが挙げられる。
つまり、鎌倉時代初期にはまだナマズ地震の神にはなっていなかったと考えられる。

一方、ナマズ地震の関連を示す最も古い史料は豊臣秀吉の手紙である。
いわずと知れた安土桃山時代の武将だ。
秀吉が築城の際に送ったという書簡の中に、
なまず大事」
という記述がある。
これは築城に際して地震対策を怠るなという文脈だったらしい。
このことから、ナマズ地震と結びついたのは鎌倉時代室町時代にかけてだと思われる。
それが一般的になっていくのは、先にも述べた通り江戸時代、安政地震で流行した鯰絵の頃である。

ナマズ以外の地震

ナマズの他にも地震の神がいるという指摘もいただいた。
「なゐの神」と言い、こちらは日本書紀に記述があるほど古い。
推古天皇7年4月27日(599年5月28日)の条に、
「地動(なゐふ)りて舎屋(やかず)悉(ことごとく)に破(こほ)たれぬ。則ち四方(よも)に令(のりごと)して、地震(なゐ)の神を祭(いの)らしむ」
とあるそうだ。
「なゐ」は古語で「地震」を意味する。
日本書紀の記述の意味は、
「地面が動いて家屋などがことごとく壊れたので、たちまち各地に命じて地震(ない)の神を祀らせた」
ということになる。
この神様はスサノオやアマテラスと云う様な、いわゆる天皇家のルーツに登場する神ではなく、海の神、山の神、はたまた雷神・風神のような自然現象を神格化したものらしい。
三重県名張市式内社の名居神社(ないじんじゃ)があり、これが伊賀国における「なゐの神」を祀る神社であったとする説があるとのこと。
この神社の現在の祭神は、大巳貴命・少彦名命天児屋根命・市杵嶋姫命・事代主命蛭子命
ヘビとヒル(異説もアリ)が祀られているそうで、ヘビはよくあるものの、ヒルというのは珍しい気がする。
また、この神社の本殿背面には龍が居るらしい。

長虫

地震の話題の中で龍が出てくると要石に押さえつけられている長虫を連想するが、長虫は実際のところイコール龍というわけでもない。
現在一般的には長虫=ヘビだし、ミミズや芋虫なんかも長虫と言う。
それから例は少ないながらもウナギも長虫の一種として捉えることがある。

ヘビ、ミミズ、イモムシ、ウナギ、と並べていくと、ヌメッとしていてノタノタする生き物という共通項が見えてくる。
この特徴はナマズにも当てはまる。

地震の予知をする動物という点では、犬やネズミなども話に聞くが、元々地震の元凶とされてきた長虫の姿からは程遠い。
ナマズ地震を予知する性質を持つ上に、長虫の特徴をも併せ持っている。
龍が犬やネズミに変遷するより、ナマズへと変遷するほうがより近いと言えるだろう。

長虫を基準として相対的に考えると、龍がナマズへと変わっていったことはそれほど不自然とは思えなくなってきた。

ナマズの生息域

最後に、ナマズの生息域からの観点を蛇足的に書いておく。

現在ナマズは日本全土に生息しているが、関東・東北に生息するようになったのは江戸時代以降、という説もある。
これについては異説もあるため鵜呑みにはできないが、仮に関東・東北でナマズがあまり一般的ではなく、珍しい魚であったとするなら、特殊な生き物として認識されていた可能性はあるだろう。

例えば江戸時代の文献には、洪水のあとにナマズが出た、という記述があり、この記述を見る限りは、まるで洪水が起きたこととナマズとが関連しているかのようにも取れる。
普段はあまり見かけない生き物が災害の後に姿を現せば、
「こいつが何か関係しているんじゃないのか」
という八つ当たり的な迷信が生じてもおかしくない。
最初に述べた通り、日本には生き物を擬人化・神格化する文化が根底にあるためである。

以上のようなことから考えると、ナマズ伝承の生じた具体的なポイントはわからないものの、生じた経緯は不自然ではないように思う。
地震の際に活発になるナマズの性質、比較的珍しい存在であったという仮定、長虫系の怪異な風貌など、様々な要因が絡んで自然発生的に地震神としての性格付けが成されていったというところだろうか。
“いつとはなしにいつの間にやら”に生まれた伝承だから起源が捉えにくいということで、ひとまず納得しておく。