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存在の証明

 玲子の日常は、夫との議論に始り議論に終わる。
 仲が悪いというわけではない。結婚して三十年余り、子供はいない。議論の毎日と言えども、玲子は離婚を考えたことは一度もなかった。
 夫の健太は大学研究者で、玲子はその助手の立場にある。研究内容について持論が正反対であるために、結論の出ない議論を延々と続けてきたのである。
 研究対象は超常現象、特に心霊科学であった。
 健太は懐疑派、玲子は肯定派だった。肯定派というよりも、玲子は霊が存在することを確信していた。俗に言う霊感というものが備わっているせいか、玲子には何かが見えたり、誰かの言葉が聞こえることがあった。

 二人が出会ったのは、健太の心霊実験がきっかけであった。玲子は被験者として実験に参加した。
 若き日の健太はすらりとした長身に白衣を着込み、小さな方形のメガネの奥できらめく瞳には知性が満ち溢れていた。一言で言えば秀才で美男子。玲子は一目で健太に魅力を感じた。
「僕は安易に肯定する気はない」初めて会った時、健太はいきなりそう言った。「だからと言って否定して片付けて終わりにする気もない。非存在の証明は困難だ。この研究には終わりはないかも知れない。でも、いつか肯定に足る証拠が見つかる可能性がある限り、逃げるわけにはいかない」
 そんな健太の研究者としての姿勢にも、玲子は感心した。
「あたしの周りに集まってくる人たちは、盲信するか、頭ごなしに否定するかのどちらかだったわ。マルかバツかみたいな両極端じゃなくて、あなたのように客観的に真実を見極めようとする人は初めて」
「勘違いはしないでくれよ。僕は現時点では否定的だ。心霊の存在を肯定する証拠は何もないからね」
 そう言って白い歯を見せて微笑む健太に、自分の霊能力を信じて欲しいと、玲子は強く願った。
「あたしが証拠を見せるわ。あなたが霊を肯定できるように」
 玲子はそう約束した。

 結局その時の実験では霊の存在を示すことはできなかった。玲子は健太に信じてもらいたい一心で、その後も度々様々な方法で実験を提案したが、
「不可思議な現象、ということは認められても、それがイコール霊の存在とは言いがたいな」
 実験結果のレポートに、健太はいつも大きなバツ印を書くのだった。玲子は自分自身が否定された気がしてつらかった。実験結果以外の点では健太はすこぶる優しく紳士的で、そのギャップがまた玲子を躍起にさせた。
 玲子は健太の実験室に通いつめた。健太から科学的な手法についても学び、どうすれば霊の存在を確かめることができるのか、議論を繰り返した。
「君の熱意は大いに認めるところなんだけどもね」
 ある日の交霊実験でも、健太はレポートにバツ印を書き込んだ。玲子はうまく霊と交信できなかった自分が悔しく、健太に認めてもらえないことが寂しくて、涙をこぼしてしまった。すると健太は玲子の頬に手を当てて、
「僕はまだ結論は出してないよ。君が自分のことを信じているなら、あきらめないことだ。僕はね、もっともっと君のことを知りたいんだ。めげずに今後も力を貸してくれ」
 玲子は拾われた子犬のように健太に擦り寄って、絶対あきらめないと誓った。
 それから二人は一層親密になっていった。一緒に朝のコーヒーを飲みながら、霊について語り合った。オープンカフェでランチを食べながら、霊能力の仕組みについて検討した。議論することが多すぎて、夕食を共にすることが増えていった。
 休日も二人は一緒だった。朝の公園を散歩しながら議論し、遊園地のジェットコースターに乗りながら議論し、東京タワーのイルミネーションを眺めながら議論し、ホテルのベッドの上でも議論を重ねた。
「君の言うことを信じられないわけじゃないんだ」健太は玲子を優しく愛撫しながら言った。「個人的な感情で科学者の信念を曲げることはできない。君を愛してることと、霊が存在することは無関係だ」
「霊の存在がなければ、あたしたち出会ってなかったんじゃないの?」
「仮定は意味がない。必要なのは結果だ。僕らはもっと協力して研究に励まないと」
 そうして二人は結婚した。

 以来三十数年。玲子は約束を果たすために尽力してきた。
 毎日議論を続けても、健太との結婚を後悔することはなかった。健太は六十を過ぎていたが、半分白くなった髪で渋みを増し、大学の学生にも人気があるほどいい男のままだった。
 様々な実験を繰り返すうち、玲子の霊能力が顕著に現れるのは、心霊写真らしいということがわかっていた。
「この写真、強い念を感じるわ。ほらここ、顔が映ってる」
 玲子は写真を健太に渡す。健太は示された箇所に目を凝らし、
シミュラクラ現象だな。ここと、ここと、ここだろ」暗がりに映っている白い点が、逆三角の形に並んでいるのを指し示し、「何度も言っていることだが、人間はこの配置を見ると顔を想起するものだ。目が二つ、その下に鼻だか口だかが一つ。この逆三角の並びは、自然界のどこにだって転がってる」
「これは違うわ。ただの模様と霊とを間違えたりしない。模様には念を感じないもの」
 玲子はそう反論するのだが、
「不十分だ。君が念を感じたかどうかだけでは。もっと確固たる証拠がなければ証明にはならない」
 健太は相変わらず大きなバツ印をつけて、写真を放り出すのだった。

 ある日、玲子は朝目覚めた途端に妙な寒気を感じた。魂がどこか遠いところに運ばれてしまうような感覚。
「おはよう、なんだか顔色が悪いな」
 朝食の席で健太にそう言われ、玲子は無理に微笑んでみせて、
「何か嫌な感じがする。でも大丈夫」
 そう言ったものの、気分は最悪だった。守護霊が何か警告を発しているように思えて、玲子は一日休養を取ることにした。
 夜になると熱が出て、玲子はまともに眠ることさえできずに苦しんだ。健太は夜通し付き添ってくれた。
 翌日になっても熱は引かず、魂が抜け出るような感じはますます強くなっていった。
「あたし、もうすぐ死ぬんだと思う」
「何を言ってるんだ玲子。今日は病院に連れてってやる。すぐ良くなる」
 健太は玲子の手を握り、強い口調でそう言った。いつもと同じ健太の断定的なしゃべり方が、玲子には頼もしく嬉しかった。
「死んだら、あなたのところに戻って来るから」玲子は健太の手を握り返した。「あなたが霊の存在を証明できるように、戻ってきて写真に写るわ」
「今はそんなことはいい」
「よくないよ。約束して。あたしを写真に写して」
 健太はひどく戸惑った顔をしていた。長い間一緒にいて、玲子はそんな健太の表情を初めて見た気がした。
「あたしね、子供の頃からいろんなものが見えたり、聞こえたりしたでしょ。そんな力、いらないと思ったこともあったけど、あなたに会ってからは感謝してる。あたしの力は、きっとあなたが霊の存在を証明するために、与えられたものなんだって思えたから」
「それなら病気を治すことだ。病気を治して、また二人で実験をすればいい」
 玲子の回復を願う健太の気持ちが伝わってきて、玲子は満たされた気持ちになる。
「そうね。でももしあたしが死んだら、今度こそ証明できる。約束したもんね、必ず証拠を見せるって」
 その時初めて健太はレポートに大きなマルを書いてくれるに違いない。玲子は目を閉じ、その光景を思い浮かべて微笑んだ。
 魂が飛んでいく感じがまた襲ってきた。健太の手を握り締めていた力が抜けていく。
「おい、玲子、いかん救急車だ」
 健太が取り乱した様子で寝室を飛び出していく。
 そんなに慌てなくても大丈夫よ、という玲子の思いは言葉にはならなかった。そのまま急激に意識が薄れていき、玲子には何もわからなくなった。

 次に気がついた時、玲子は葬儀場のホールにいた。辺りは暗く、壁の時計を見ると二時を回っていた。
「お目覚めかね」
 声をかけられて振り向くと、スーツ姿の老人が立っていた。
「あたし、死んだのね」
「物分りが早いな。大抵は納得できなくて説明するのが大変なんだが」
 老人は満足そうにうなずいて、
「さあ、行こうか。皆が集まってるところがある。いわゆる“あの世”ってやつだ」
 手を差し伸べてきたが、玲子は一歩下がって、
「待って下さい。あたしにはやらなくちゃいけないことが。死んでからどれくらい経ったのかしら」
「目覚めるのがちと遅かったようだから、四、五日経ってるんじゃないかね。あんたの葬式は終わっとるだろう。一体何をしようというのかね」
「夫に約束してるんです。死んだら写真に写って、霊の存在を証明するって」
 老人は目をぱちくりさせて、それから大声で笑った。
「残念だが、それは無理だなあ。わしらは写真に写ったりせんよ。わしらから生きてる者の姿は見えても、生きてる者がわしらを見ることはできん」
「え。でも、心霊写真はたくさんあるし、あたし何度も見たり、声を聞いたりしてきました」
 老人はゆっくり頭を振って、
「そりゃ勘違いだなあ。幻覚とか幻聴とかな。心霊写真なんてのは、シミュラクラ現象と言ってな……」
「知ってます。じゃあ、守護霊はどうなんですか。あたしは死ぬ前に守護霊から警告を受けました」
「おらん。警告ってのは気分が悪いとかそんなのじゃないのかね。それは体調が悪けりゃ当然だろうに」
 玲子は唇をかんだ。今まで散々感じてきた気配を、全て気のせいだと済ますことなどできなかった。
「先祖の祟りや自縛霊や憑依現象は?」
 思いつくまま挙げてみたが、
「先祖が何で子孫を恨むんかね。子供は可愛いもんだ。自縛霊なんてのは単に道路や環境の問題で事故が多発するだけのことだろう。憑依なんぞできるもんなら、わしは今頃若い女にとり憑いておるわ」
 全て老人に否定されてしまった。幽霊に心霊現象を否定されるとは皮肉な状況だった。
「見えないなんて嘘よ、あたし信じない」
 玲子は後ずさり、それからホールの出口に向かって駆け出した。
「見えんもんは見えんって。まあいい、納得したらまたおいで。わしらはどうせ暇だからな」
 背後から老人の声が聞こえてくるのを振り切って、玲子は自宅を目指した。

 健太は起きていた。起きてはいたが、ひどい状況だった。
 いつもきちんと整えていた髪は乱れ、シャツもズボンも着崩れて、泣き腫らしたのか真っ赤な目をしていた。
「玲子……」健太は玲子の遺影に向かって語りかけていた。「君を失って初めて、君の大切さが解かったよ……」
 常に冷静で落ち着きのあった健太が、無様なまでに悲嘆している姿に玲子は胸を詰まらせたが、気を取り直して健太の前に立ち、手をヒラヒラさせてみたものの、まったく見えていない様子だった。
 霊感のない健太には直接見えないのも無理はないと思い、玲子は健太の耳元に手をかざした。
「あなたー! ただいまー!」
 大声で叫んでみたが何の反応も示さない。少なくとも健太には玲子の姿も声も認識不能なのは間違いなかった。
「となると残るは……」
 玲子は机の上のカメラに目を向けた。健太が約束を覚えているなら、きっと玲子を写そうと試みてくれるはずだった。健太はまだ遺影に向かってぶつぶつつぶやいていた。
「うう、玲子……。君の作った肉じゃが、美味しかったよ……」
「そんなことはいいからカメラ」
「玲子、ごめんな。ずっと言えなかったけど、実は前に一度だけ、浮気したことが……」
「う。許しがたいけど、カメラだってば!」
 なかなかカメラを手に取ろうとしない健太の周りで、玲子はひたすら待ち続けた。
 健太が思い出したように顔を上げたのは、夜も白み始める頃だった。立ち上がってカメラを手に取る健太に、玲子は手を振ってアピールしたが、健太はカメラをあさっての方向に構え、
「僕は信じるぞ玲子。君はきっと写ってくれるって。今なら僕にも君の念を感じられるかもしれない」
 玲子は慌ててファインダーの前に飛び込んだ。健太はシャッターを切った。すぐに健太はプリンターを動かし、撮った写真を大きく引き伸ばして出力した。
 食い入るように写真を見つめる健太の横から、玲子も身を乗り出してのぞき込む。
 中央にカーテンの閉まった窓が写り、一見何の変哲もない部屋の写真だったが、
「ちょびっと写ってる! やったわ!」
 写真の隅を指差して玲子は歓喜の叫びを上げた。写真の縁ギリギリのところに、ファインダーの前に飛び込もうとする玲子の、頭の先が黒く見えていた。
 健太は血走った目で写真を見つめ、それからはらはらと涙を流し、微笑んだ。
「玲子、君なんだね? そこにいるのを感じるよ。約束通り、写ってくれたんだね」
「そうよ、あなた。あなたがずっと捜し求めていた、霊が存在する証拠よ!」
 そして健太は嬉しそうに、カーテンのシワの逆三角形の模様に大きなマル印を書いた。

木枯らしまでに

澄み渡った青空から山肌に向かって秋風が吹き降りると、赤や黄色の葉が舞い上がっては谷底へと落ちて行く。
 松五郎は風をやり過ごすと、顔を上げて行く手を見た。谷を渡る吊り橋は、半ばまで出来上がっていた。山深い里の秋は短いものの、木枯らしが吹く前に最後まで仕上がりそうだった。
 額の汗を拭って、松五郎は昨年の秋を思い出す。昨年の秋には、松五郎の幼い娘が真っ赤なモミジの葉を拾ってきたものだった。
 今年、松五郎の娘は居ない。
 眉間に皺を寄せ、松五郎は踏み板をくくり付ける仕事に意識を注いだ。

 松五郎は山深い里に生まれ育った。昨年までの松五郎の暮らしは、貧しいながらも幸せなものだった。
 妻のタミと一人娘の八重子に寄り添われ、昼は畑仕事に精を出し、夜は晩酌を楽しんで、
「俺は酒さえ飲めれば文句はねえ」
 という口癖通り、何の不満もない静かな生活だった。
 町ではガス灯が出現し、人々の生活が目まぐるしく変化していた時代である。近代化の波は松五郎の里へはなかなか届かなかった。里は時代から取り残されつつも、自給自足が成り立ち、貧しいなりに平穏に生きることのできる土地だった。里で手に入らない物は、数時間かけて山道を下り、町へ出れば買えた。たいていは贅沢品で、里での暮らしに必要な品ではなかった。
 里に住む者は皆ほぼ充足していたが、唯一足りなかったのは医者だった。医者は、町にしか居なかった。
 昨年の冬半ば、どこからともなく流行り病が広まって、年寄りや子供が熱を出しては次々と死んでいった。
「心配だわ、うちの八重子は大丈夫かねえ」
 不安な顔をするタミに、
「町に行けば医者も薬も良いのが揃うておるわ。心配なぞいるか」
 松五郎はうそぶいた。実際には医者にかかる金の余裕などなく、内心の不安を酒で紛らわせるばかりだった。
 いざ八重子が熱を出した時には、
「これは風邪だろう。医者になぞ診せたら笑われる。きっとそうだ。そうに違いない」
 そう言って町へ連れて行くことを拒んだ。酒をあおり、逃げるように酔い潰れた。
 八重子の容態が悪化すると、松五郎は泣きながら酒を飲んだ。弱っていく我が子を助ける金も力も、自分にはないと解かっていた。すまない、と心の中で叫びながら、松五郎は浴びるように飲んだ。
「お願いだから町へ、お医者様へ、必要なら家も畑も売ってしまって」
 タミが泣き叫んで頼んだ時には、もう手遅れだった。松五郎は完全に酔い潰れ、八重子が息を引き取る瞬間にも大きないびきをかいていた。

 以来、妻との会話は絶えた。
 松五郎は己を憎んだ。治療費もままならず、娘を見捨てた自分の不甲斐なさを憎んだ。押し黙ったままのタミと一緒に過ごすのが耐えられなかった。結局頼ったのは酒の力で、大徳利を抱えて里の稲荷に座り込み、泥酔しは近所の者に介抱される日々が続いた。
 春が来て雪が溶けても、松五郎の苦悩は消えなかった。
「俺はもう死にたい……」
 松五郎は涙と涎を撒き散らしながら誰彼構わずわめいた。見かねた里長の甚左衛門が稲荷まで足を運び、
「流行り病で子を亡くした親は大勢おるわ。お前は弔いもろくにせんで、酒に溺れて恥ずかしくないのか」
 一喝するのに、松五郎は酔いに任せて、
「何とでも言え。俺は屑だ。生きていても何の役にも立たん」
 甚左は半ば呆れながらも、松五郎を見捨てはしなかった。隣に腰をおろし、懇々と説いた。
「悔いもあろう、悲しみもあろう。だが、お前がそんな有様では、死んだ子もご先祖衆もお前を迎えいれてはくれんぞ。お前にはまだ家族が居ろうが。しゃんと立って歩かねばいかん」
「そうは言っても何をどうすればいいかわからん。俺はどうしたらいいのだ……」
 激昂と嗚咽とを交互に繰り返す松五郎に、
「松よ、橋をかけてはどうか」甚左は町へと続く道を指差した。「町までは四時間、若い男の足でも三時間はかかる。深沢の谷を大きく迂回する道は、渓谷沿いの険しい山道だ。谷を渡る橋があれば、道のりは二時間は縮まろう。里の者は皆お前に感謝するだろう」
 松五郎はようやく顔を上げて、新緑に染まり始めた山合いの道を見た。しかしその瞳はまだ空っぽだった。
「橋なんぞ架けて、それが何になるのだ」
「町に下りて医者にかかるのが間に合わなかった者が大勢おるのだ、松よ。わしの連れ合いもそうだった。もう少し早ければと、医者にそう言われた時の悔しさは忘れられぬ。深い谷をどれだけ憎んだことか」
 松五郎の目を正面から見据えて甚左は、
「橋が架かれば助かる命がある。これ以上にお前の娘の供養となるものがあろうか」
 それから松五郎の肩をぽんと叩くと、腰を上げた。
「大それた橋が必要なわけじゃなし。吊り橋があれば里の者が通るには事足りる。必要なことはわしに相談せい。里のためになることだ。お前が働くというのなら、食うに困らんくらいの金は出そう」
「娘の供養に……」
 松五郎は里長の言葉を口の中で小さく繰り返した。

 夏蝉が一斉に羽化し始める頃、松五郎はゆっくりとではあるが、橋を作り始めた。酒を口にするのはきっぱりと止めた。妻とは相変わらず一言も口をきかなかったが、里の者たちは働き始めた松五郎の姿に興味津々だった。
「あん時、橋がありゃあ、娘は医者に間に合ったんだ」
 松五郎は里の者にそう説明した。それが言い訳であることは誰もが知っていたが、誰も何も言わなかった。
 橋の架け方は甚左衛門に聞いた。まずは丈夫な綱を二本、谷に渡す必要があった。谷は綱を投げ渡せるほど狭くはなかったので、松五郎は綱を抱えて谷を下り、反対側を這い登ろうと考えた。
 しかし谷は険しかった。斜面を転がり落ち、危ういところで綱にすがり付いた。松五郎は死の恐怖を知った。
 知恵を絞り、谷の両側から綱を下ろし、谷底で双方を結び付けてから引き上げるやり方で、綱を渡すことが出来た。綱を手繰って少しずつ太いものを繋ぎ、吊り橋の基礎が整ったのは夏も盛りを過ぎた頃だった。
 松五郎は自信を取り戻しつつあった。タミとはまだ言葉を交わせなかったが、谷の両側をつなぐことで、自分と妻との溝も埋められるような気がしていた。
 それから松五郎は山に入って木を切り倒し、吊り橋の踏み板を作り始めた。この頃になると手伝おうという者も現れたが、松五郎は一人でやると言い張った。
 踏み板を綱に吊るしながら谷底を覗き見て、
「落ちたら死ぬんだろうな。けど、俺は仕舞いまでやり遂げてやるからな」
 独力でこの橋を渡し切ることが出来たら、きっと自分自身を許せるだろうと松五郎は思った。

 紅葉もあらかた散り果て、秋風に冬の匂いが混じる頃、松五郎はとうとう仕事をやり遂げた。
 橋の端に立って谷の向こうを眺めれば、太い綱に支えられた立派な吊り橋が、真っ直ぐに伸びていた。
 松五郎は冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。足元に落ち込む深い谷に向かって大声を上げた。
「つないでやったぞ。山と山を。この俺が、つないでやった」
 里長の甚左は吊り橋の上を往復し、その出来栄えに感心の声を上げた。
「よう仕上げたな、松よ。こうも見事な吊り橋を架けるとはな。お前には橋大工の才があるのではないか」
 松五郎の苦悩は、もう消え去っていた。流行り病への憎しみも、娘を救えなかった己の不甲斐なさも、心のどこか奥のほうへと引っ込んで、肌を冷やす風が無性に心地よかった。娘のためでもなく、里の者たちのためでもない。松五郎自身の生きる気力をつなぎとめるための橋だったのだと、そう思えた。
「松よ、長いこと飲んでおらんのだろう。今日はわしからの祝いだ。持って行くがいい」
 甚左は大きな徳利を松五郎に手渡し、早く帰って妻を喜ばせてやれと言った。
 満ち足りた気持ちに足取りも軽く、松五郎は家路を急いだ。
 新たな気持ちで新たな人生を踏み出す決意をタミに伝え、共にやり直そうと思っていた。

 家の引き戸を開けると、土間の炊き場に立つタミの背中が見えた。松五郎は興奮を抑えず、
「おい、とうとう橋が出来上がったぞ。途中で投げ出すだろうと陰口を叩く奴らもいたが、俺は最後までやってやった。もう町へ出るのに苦労しなくて済むぞ」
 一気にまくし立てた。背中を向けたまま返事もしないタミに、
「もう流行り病も怖くはない。町まではすぐに行けるからな。きっと八重子も喜んでいるに違いない」
 そう言うとタミの手の動きがぴたりと止まった。
「あの子が喜ぶですって?」
 松五郎は戸惑った。久しぶりに耳にした妻の声は、谷底の石のように硬く冷たかった。
「きっと喜んでくれる」松五郎は言った。「俺は生まれ変わったような気持ちだ。死ぬような思いもしたが、橋を架け終えてみて、もう一度やり直す気になったんだ。お前は、喜んでくれないのか」
 タミが振り向いた。表情は喜びどころか、怒りに満ちていた。
「私がなんで黙ってたのか、あんたは考えたことないの」
「なに?」
「やっと口をきいたと思ったら、喜べですって? 他に言うことはないの」
 憎悪のこもった口調だった。松五郎はタミの態度に顔をしかめ、
「何を言えというんだ」
「あんたのような屑には分からんわね」
 吐き捨てるように言われ、松五郎は頭に血がのぼった。
「屑とは何だ! お前がずっと陰気な顔してる間、俺が何をしてたか知らんのか! 俺は橋を架けたんだぞ!」
「橋が何だっていうの。あんな橋、火でもかけてやりたいわ」
 思わず拳を振り下ろしていた。ごつっと鈍い音がして、タミは土間に倒れこんだ。
「お前に、何がわかるか! 俺がどんな気持ちで、あの橋を架けたか」
 松五郎はタミの腰のあたりを蹴り付け、髪をつかんで顔を起こすと、もう一発拳を振るった。
 タミは悲鳴も上げず、毅然と顔をもたげた。呪い殺そうとでもするような形相だった。
「あんたが殺した」
「なんだと」
「あんたが殺したんだ。苦しんでたあの子を。あんたは酒を飲んで寝てた。医者も薬も何にもせずに、あんたが殺したんだ!」
 タミの目に涙があふれ、血のにじんだ頬を伝って流れていくのを、松五郎は呆然と見つめていた。
 橋を架け終えた時の満足感はいつしか消し飛んで、真っ暗な自己嫌悪が松五郎の胸に再び染み出してきた。
「あんたが殺した」
「よせ」
「あんたがあの子を殺したんだ」
「やめてくれ……」
 松五郎は壁際にへたり込んで頭を抱えた。タミは息を殺し、それから長く悲しげな吐息をもらした。
「橋が何だっていうの。八重子は、死んでしまったのに」
 タミは静かに立ち上がると松五郎の傍らを通り過ぎ、家の奥へと引っ込んだ。しばらく間があって、押し殺した泣き声が聞こえてきた。
 松五郎は甚左のよこした大徳利の栓をかじり取り、息が詰まるほどの勢いで酒を喰らった。
 酔いが全てをどこか遠いところに押しやるまで、ひたすらに酒を求めた。

 夜更け過ぎ、泥沼の中から起き上がる気分で目覚めると、タミの姿は家から消えていた。畑にも、納屋にも、タミは居なかった。里中を歩き回っても、どこにも見つからなかった。
 松五郎は胸騒ぎを覚えた。吊り橋に向かって夜道を駆けに駆けた。
 この冬初めての木枯らしが木々を揺さぶっていた。鋭く吹きつける風は山中にすすり泣きの声を響かせていた。
 吊り橋が見えた。そのたもとに履物が揃えて置かれていた。松五郎は倒れ伏すように履物に飛びつき、
「うおお……」
 咆哮した。木枯らしに運ばれて、その叫び声は闇の中に吸い込まれていった。
 絞り出せるだけの声を、松五郎は絞り出した。腹の底から湧き上がってくるものを全て、叫び声に乗せて吐き出した。そうして松五郎は妻が求めていた一言に、ようやく辿りついた。
「すまなかった……」
 松五郎の喉はすでに潰れ、その言葉は枯れ葉のような掠れ声にしかならなかった。

 それからの松五郎は、憑かれたように多くの橋を作った。
 黙々と架橋に取り組む松五郎は、声枯れ松の異名で知られる名工となった。
 川の両岸を結び、谷を渡し、町や村々の道をつないで人々の行き来を助けた一方で、自身は誰とも深いつながりを持たぬまま、松五郎は生涯を孤独に終えた。
 松五郎が初めて架けた吊り橋は、長いこと里の人々の行き来を支えたが、ある年の冬、突風に吹かれてバラバラになり、谷底に消えた。

喜びの呪文

「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーンだよ、姉ちゃん!」
 小学校に入学したばかりの弟のタカシが、ミサキの部屋に飛び込んできた。
「今度は何」
 ミサキは机に向かったまま、手を休めることなく尋ねた。タカシの「ゼンダイミモン」はこのところ毎日発生
している。たいした事件ではないことは聞く前からわかっていた。
 タカシはぴょんぴょん飛び跳ねながら、
「夕ご飯、ハンバーグだって。ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 呪文のように繰り返し叫んだが、ミサキが関心を示さないことに気づくと、こそこそと部屋を出て行った。
 ミサキは鉛筆を投げ出し、中学受験の参考書を閉じると、大きなため息をついた。
「ハンバーグが前代未聞って、どんだけ貧乏家庭の話なんだか」
 確かにミサキの家は裕福とは言えなかった。父親は工場勤めの派遣社員、母親は近所のスーパーでパート、四
人家族の暮らしは質素だった。とは言えハンバーグが買えないほど貧しいわけではない。前代未聞どころか、ミ
サキの記憶では先週にも食べた覚えがある。
 タカシのゼンダイミモーンは前代未聞とは程遠かった。目下タカシはゼンダイミモーンがお気に入りで、事あ
るごとに「ゼンダイミモーン!」とはしゃぎ回るのだ。

 きっかけは二週間ほど前のタカシの誕生日だった。
「今日な、工場で表彰されたぞ。金一封付きだ」
 仕事から帰るなり、父親は自慢げに言った。そして大きな箱を食卓の上に置いて、
「せっかくだから、でかいケーキを買ってきた」
 箱を開けると甘い匂いが溢れた。四人では食べきれないほどの大きな、イチゴや白桃やキウイがどっさり乗っ
たケーキだった。チョコレートプレートには“おたんじょうびおめでとう!タカシくん”と書かれていて、タカ
シは部屋中を転げまわって喜んだ。
 食卓を囲みながら父親が話したのは、
「工場の安全標語コンテストで最優秀賞に選ばれたんだよ。いつもは社員が受賞するんだけど、派遣で初めての
受賞だったんだ。この快挙は前代未聞だってさ」
 タカシはケーキを夢中で頬張りながら、
「ゼンダイミモーン!」
 と叫んでクネクネと身体を動かした。
 ミサキは弟の怪しいダンスに思わず笑ってしまった。するとタカシはますます激しく身体をくねらせて、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 何度となく繰り返し叫んだのだった。

 そうしてタカシはゼンダイミモンの呪文を習得した。
「今日ゼンダイミモーンだったんだよ!」
 夕食の時間に、学校での出来事を語る時にはそう切り出すのがお定まりになった。
「ゼンダイミモーンだよ、姉ちゃん!」
 ミサキの部屋に飛び込んでくる時の最初の台詞はいつも同じになった。
 最初の何回かは、ミサキも相手をしてやっていたが、
「学校の桜の木にね、イモムシがいっぱいいた」
「体育の時、先生が跳び箱八段跳んだんだよ」
「掃除の時間に、消しゴム拾ったんだ」
 一年生のタカシにとっては、それなりに驚きの出来事なのかもしれない。しかしミサキにとっては実にどうで
もいい話ばかりだった。相手にするだけ時間の無駄だと、ミサキは思うようになった。
 ミサキにはもっと大きな悩みがあった。六年に進級して三週間が過ぎ、年度始めの行事も落ち着いて、本格的
に授業が始まっている。ミサキは私立中学への進学を望んでいた。そのために毎日勉強に打ち込んでいるものの、
「公立中学でも勉強はできるじゃないか。公立のほうが気楽だぞ」
 父親はミサキの希望を理解しなかった。
「ミサキ、あなたがどうしても行きたいなら、何とか頑張ってみるけど……」
 母親は学費の捻出に頭を悩ませるだけだった。
 父親も母親も、ミサキに言わせれば人生の負け組だった。毎日油だらけになって帰ってくる父親は、酔っ払う
と工場の文句ばかり言っている。文句があるなら会社に言えばいいのにと、ミサキはいつも思う。母親はいつで
も何でも人の言うことに従おうとする。ミサキは母親の意見らしい意見を聞いたことがない。もしかしたら「い
いえ」という言葉を知らないのかもしれないと、ミサキは時々考える。
 両親と同じような人生を歩みたくはないと思う一方、そんな人生から家族まとめて抜け出したいという気持ち
もあった。ミサキは家族を嫌っているわけではなかった。油まみれの父親や、細い腕で買い物袋をいっぱい抱え
る母親の苦労を目にすれば、自分が将来良い仕事に就いて、楽な暮らしをさせてあげたいという気にもなる。
 そのためには中学受験に成功して良い学校に入ることだと、ミサキの思いはやはり受験に行き着くのだった。

 ミサキが私立中学を志すきっかけとなったのは、何と言っても隣家のユウ子の存在だった。
 ユウ子はミサキより二つ年上の、現在中学二年生。都内の有名私立中学に通っている。東京西部の田舎じみた
この町からは、今まで合格した者がない難関校だった。前代未聞とはユウ子のような人にこそ相応しいと、ミサ
キは密かに思っている。
 幼馴染として姉妹のように育ったユウ子とミサキは、今でも親密に話をする間柄だった。
「ミッちゃん、人生はね、子供のうちからどれだけ努力するかで決まるんだよ」
 ユウ子はよくそんな話をした。
「音楽とか絵とかさ、すごい人って大体子供の頃からやってるでしょ。勉強だってそうだよ。公立の中学に進む
より、私立のほうが絶対良いよ。私立の中学ってね、公立でやる内容は二年までで終わらせちゃって、三年では
高校の勉強をするんだ。公立の勉強じゃ追いつけないよ」
 いつでも断言口調で整然と語るユウ子は、ミサキにとって憧れであり、目標であった。
「受験するなら塾に行ったほうが良いよ」
 ユウ子のアドバイスを受けて、ある日ミサキは両親に塾に行きたいと訴えた。
 半ばミサキが予想していた通り、両親は良い顔をしなかった。
「受験は高校で頑張ればいいじゃないか。俺なんか小学校の頃には勉強なんかしなかったぞ。それでもちゃんと
食えてるだろ」
 そう言う父親に向かって、ミサキは口を尖らせて反論した。
「高校じゃ遅いよ。私は良い勉強が出来る中学に行きたい。公立じゃ追いつけなくなる」
 両親は顔を見合わせて、
「ミサキ、ユウ子ちゃんの真似をしなくてもいいのよ。ユウ子ちゃんはお父さんもお母さんも先生だし、昔から
勉強が出来る子だったし」
 諭すように言う母親の言葉に、ミサキは強い反発を覚えた。真面目に将来を考えているというのに、ただユウ
子の真似をしているだけだと思われてることに腹が立った。頭の中が真っ白になって、
「私はお父さんやお母さんみたいになりたくないの!」
 思わず叫んでいた。
 父親も母親も、言葉を失ってミサキの顔を見つめていた。言ってはいけない一言だったと、ミサキはすぐに我
に返ったが、凍りついた空気を溶かす言葉を思いつけなかった。
「ミサキ……」
 泣くような、責めるような、複雑な母親の声色に耐えかねて、ミサキは自室へと逃げ帰った。

 ミサキが机に突っ伏して、こみ上げて来る嗚咽を堪えていると、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 弟のタカシが踊るように部屋に入ってきた。
「ゼンダイミモーン! ねえ、ゼンダイミモンだよ、姉ちゃん」
 タカシの無邪気で呑気な呼びかけが疎ましく、ミサキは感情が爆発するのを止められなかった。
「うるさい!」
 椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、タカシに詰め寄る。怯えた表情を見せるタカシをにらみつけて、
「あんたね、下らないことばっかり言いに来ないでよ! 前代未聞の意味もわかんないくせに!」
 タカシは目をパチパチさせながら、
「わかるもん。ゼンダイミモン、知ってるよ」
「じゃあ言ってみなよ! どんな意味か」
 これが八つ当たりだということは、ミサキにもわかっていた。八つ当たりでも何でも、激情をぶつける先が今
は欲しかった。
 タカシの目にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「知ってるもん。言えないけど、知ってるもん……」
「知ってれば言えるでしょ。知らないから言えないんだ」
 切りつけるような勢いでミサキがたたみかけると、タカシは本格的に泣き出した。そしてタカシは部屋から逃
げていった。ミサキは怒りが冷めるどころか、弟を泣かせてしまった自己嫌悪まで背負い込んで、ベッドに潜り
込んで自分も泣いた。

 翌朝、父親はミサキに言った。
「母さんともよく話し合ってみた。お前が希望するなら応援する」
 中学受験を認め、毎日ではないにしても、塾へも行かせてやると約束してくれた。
「頑張り屋のミサキなら、きっと合格できるよ」
 そう言って微笑む母親の目は赤かった。謝るべきだと思いながらも、ミサキは何も言えなかった。
 父親の帰ってくる時間は、随分と遅くなった。母親の作る食事は、前にも増して質素になった。タカシはミサ
キが勉強している時には部屋にやってこなくなった。
 ところが、肝心のミサキは勉強が手につかなくなっていた。
 参考書を広げ、鉛筆を握ると、なじるミサキの前で言葉を失った両親の姿が蘇って来る。
 八つ当たりしてしまった時の、口を引き結んで目に涙をいっぱい溜めたタカシの顔が浮んでくる。
 父親は酒を飲んでも、会社の文句を言わなくなった。黙って座り込んでちびちびと酒を飲み、そのまま眠って
しまうことが増えた。母親は時々家計簿をつけながら、ため息をつくようになった。夕食にハンバーグが出てこ
ないせいか、タカシはお気に入りの「ゼンダイミモーン」を唱える機会が随分と減った。
 中学受験のせいで家族を苦しめてる、そう思えてならなかった。
 不安な気持ちを口にすると、
「気にするな、親が子供のために働くのは当たり前だろうが」
 父親はそう言ってミサキの頭を撫でてくれた。母親も笑いながら、
「こういう時こそ、やり繰りの腕の見せ所だからね。大丈夫だから頑張りなさい」
 細い腕でガッツポーズをして、ミサキを応援してくれた。
 ミサキは迷いを振り切れないまま机に向かい、一生懸命鉛筆を走らせた。問題を解き、答え合わせをしてみる
と、ほとんどが不正解だった。家族の応援に応えようと頑張るほど、焦りや不安が頭を鈍らせ、ミサキは泥沼に
はまり込んでいった。

 一学期の終わりの日が来た。
 通信簿はミサキをどん底の気分にさせた。
 良い評価はわずかで、ほとんどが普通、とても私立中学を目指せるような成績ではなかった。
「どうしよう、こんな成績じゃ、見せられない……」
 家までの道のりを、ミサキはうつむきながら、いつもの倍ほどの時間をかけて帰った。
 ただいまも言わずに玄関を静かに開けた。恐る恐る台所を覗き込んでみたが、母親の姿はなかった。パートが
長引いているのかもしれなかった。
「姉ちゃんおかえり」
 タカシが出てきて、
「今日ね、通信簿もらって……」
「またあとでね」
 ミサキは逃げるように自室へ飛び込んだ。
 机に通信簿を広げ、最悪の成績ともう一度対面する。何度見直しても、結果は変わらなかった。今まで優秀な
成績だったミサキにとっては、前代未聞の悪評価だった。
 夜遅くに帰ってくる父親の疲れた顔が浮ぶ。家計簿とにらめっこする母親のことを思う。こんな成績を見せた
ら、がっかりするに違いない。それとも怒るか、悲しむか。前にミサキがなじってしまったときの、言葉を失っ
た両親の姿が思い出された。あんな顔はもう見たくはないと思った。
 ミサキは机の引き出しから修正液を取り出した。
 成績を書き直して、両親に見せた後、また元に戻せば済むことだと、自分に言い聞かせた。キャップを外し、
白い液体のついた小さなハケを、通信簿の上にかざした時、
「姉ちゃん、勉強?」
 タカシが部屋に入ってきた。ミサキは慌ててキャップを戻し、
「ううん。何?」
 笑顔を取り繕って振り向くと、タカシは持っていた画用紙を広げて見せて、
「ゼンダイミモーン!」
 画用紙には黄色くて丸々と太ったネズミのようなタヌキのような動物が描かれていた。
「ゼンダイミモンって、まさかあんた、ポケモンだかナンジャラモンだかそういうのだと思ってたの?」
「違うよ、これこれ」
 タカシが指差すところを見ると、隅っこに“よくできました”の桜マークのスタンプが押されていた。
「それが前代未聞?」
「そう、ゼンダイミモーン」
 くねくねと怪しい踊りを踊ってみせるタカシに、ミサキはふと、
「前にも聞いたけど、前代未聞の意味わかってんの?」
 そう尋ねるとタカシは胸を張って、
「わかってるよ。嬉しいときに言うの」
 どうやらあれからタカシなりに前代未聞の意味を考えていたらしかった。
「美味しいもの食べた時とか、すごいもの見た時とか、あと、一番になった時」
 タカシにとってゼンダイミモンとは、喜びの表現だったんだと、ミサキは初めて理解した。
「じゃあ、ハンバーグ食べた時とか?」
「そう、ゼンダイミモーン!」
「桜のスタンプもらった時とか?」
「ゼンダイミモーン!」
 ミサキはタカシの不思議な動きにクスクス笑った。いつの間にか前代未聞の本当の意味が失われて、タカシの
言う通りの喜びの呪文みたいに思えてきた。
「他にもいろいろ、姉ちゃんも嬉しい時に言うんだよ」
 タカシがそう言うので、ミサキは思いついてこう尋ねた。
「それじゃあ、もし私が受験に合格したら?」
 タカシは激しく身体をくねらせながら、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン! って言いながら皆で踊る」
「それは確かに、前代未聞の光景だね」
 ミサキは父親と母親とタカシが並んでくねくねと踊っているところを想像して、お腹が痛くなるほど笑った。
それは妙にリアルな想像だった。父親も母親も、嬉しそうにニコニコと笑いながら、タカシに合わせて踊ってい
た。そんな光景を見てみたいと、ミサキは心の底から思った。
 それからミサキは修正液を手に取ると、キャップをきつく閉めて机の引き出しに放り込んだ。

 夏が過ぎ、秋が過ぎた。
 年明け早々にミサキは希望の中学を受験して、やがて合否を知らせる封書が家に届いた。
「ミサキ、あなたが開けなさい」
 母親は家族が揃うまで開封せずに待っていた。
 ミサキは深呼吸しながら封を破ると、中身をそっと引っ張り出した。
「どう? 姉ちゃん?」
 そこに書かれた文字に目を走らせたミサキは、家族に向かって合格通知を広げ、
「ゼンダイミモーン!」
 と大きな声を上げた。

休日のギタリスト

 ビンテージのレスポールを買った。
 久しぶりの休日にやることもなく、散歩先で通りがかったギターショップでの衝動買いだった。
 高校時代にギターにハマり、学業そこのけでバンド活動に邁進していたのも今は昔、三流大学に進学し、就職してからは自分がギターを弾けることすら忘れていたくらいだった。
 それも営業の仕事が異様に忙しかったせいだと言い訳できなくもない。実際、まともな休日がもらえたのは半年ぶりくらいだ。いつもの土日は接待目的のゴルフか飲み会。とてもじゃないが趣味の時間などありはしなかった。そんな生活を続けていたから、休日の過ごし方も思いつけない体質になってしまったのだ。
 だから今日の休みも何をすればいいのかわからず、仕方がないので当てもなく街をほっつき歩いていた。
 ぼーっとしていたせいで歩道の縁につまずいて転びそうになり、通りがかった若い女の二人組にクスクス笑われ、気まずさに顔を背けた先に、ギターショップのショーウインドウがたまたまあって、そのガラスの向こう側にレスポールが鎮座していたのである。
 瞬間、記憶が怒涛のように溢れ出し、高校時代に憧れてやまなかったこのギターに巡り合えたことが、蹴躓いたことも含めて、運命に違いないと思えてきた。
「いやあ、これはあるコレクターが所蔵してたものでねぇ」
 ギターショップの親父の目は、お前のような若造には売りたくないと訴えていた。そこを意味不明な営業トークを交えて押し切り、ほぼ言い値で購入した。給料の使い道はコンビニ弁当くらいしかなかったから、衝動買いする財力には困らなかった。
 花嫁を抱きかかえて自宅に入る花婿はこんな気分なのかもしれない。マンションの部屋に連れ帰ったレスポールを、ハードケースに入れたままうやうやしくベッドの上に横たえた。そしてシャワーを浴びる。身体の隅々まで念入りにピカピカにしてから、そっとベッドに戻る。これは新しいギターを迎える儀式だった。
「いいかい、開けるよ……」
 優しく、しかし躊躇いなくケースの留め金を外し、蓋を開く。
 思わずため息が出た。セクシーなワインレッドのボディ。サイドは柔らかく完璧な曲線を描き、落ち着いたブラウンのネックには気品を感じる。白く縁取られたピックガードはチャーミングなスカーフのようだった。
 すぐにも触れたい衝動を堪えつつ、まずはじっくり目で愛する。それからおもむろに触れる。ゆっくりとトップに指を這わせてみたが、なめらかで傷一つなかった。コレクター所蔵だったということは、あまり弾かれてはいないのかもしれない。
「可哀想にな、俺が弾いてやるからな」
 ギターは鳴って初めてギターになる。確かに見るだけでも美しいが、音を出さなければボディを構成する木材が熟成しない。弾き込んで初めてギターは本物になるのだ。
 弦を張り替え、チューニングする。レスポールは、わずかに弦を弾いただけでもボディを強く震わせた。
「久しぶりだから、うまくできるかどうか……」
 ギターを弾くのは何年ぶりだろう。果たしてレスポールが喜ぶほどの演奏が出来るだろうか。急に不安になってきたが、一つ大きな深呼吸をした後、おもむろに軽くストロークした。
 アンプにつないでいなくても、レスポールは甘美な音色を奏で、ボディを歓喜に震わせた。そのわななきが腹にダイレクトに伝わってくる。演奏が上手いか下手かは関係ない、今レスポールは鳴りたがっているのだと感じた。
 優しくアルペジオで弾き始めた。弦の一本一本を弾くたびに、レスポールは美しい音色を発した。その音色に導かれるように、腕が動き指が走り、また次の弦を弾く。何のことはない、弾き方は身体に染み付いていた。ぎこちなかったのは最初だけだった。
 夢中で弾きまくり、気がつけば夜中をとうに過ぎていた。明日は仕事に戻らねばならなかった。
「今度はアンプにつないでやるからな」
 隅々まで丁寧に拭いてやって、それから一番大切な儀式が残っていることに気がついた。まだ名前を付けてやっていない。
 少し考えて、ジェシカに決めた。
「おやすみ、ジェシカ」
 彼女をそっとケースに戻し、留め金をかけた。

 それからは休みのたびにジェシカと過ごした。営業の仕事は相変わらずひどくきつかったが、ジェシカと過ごせば心身ともに癒された。アンプや似合いのストラップも買ってやった。演奏の腕前は自然に上達し、かつては弾けなかったフレーズもこなせるようになっていた。
 全てはジェシカのおかげだった。高校時代に使っていた中古の安物ギターでは、とうてい出せなかったような素晴らしい音を奏でてくれる。だからこそ指も軽快に動くのだ。ジェシカは最高のパートナーだった。
 そしてジェシカと巡り合って半年程が過ぎたある日。
 接待ゴルフを終えてジェシカの元へ帰る途中、駅前でアコースティックギターを抱えた男の姿が目に留まった。
 見覚えのある顔だった。これから弾き語りを始めようとしている様子で、周囲には誰もいない。なんとなく近寄りにくくて、離れたところから眺めていると、男は静かに歌い始めた。
『古い橋の下から響く髑髏の声……』
 よく通るクリアな歌声。思い出した。こいつは高校時代のバンド仲間で、ボーカルをやってた神谷だ。
『幼い蛇に負わせた小さな傷がいつか君を殺すと……』
 おどろおどろしい歌詞ながら、相変わらず歌は上手かった。近づいていって、
「よう、神谷。久しぶり」
 声をかけたのに神谷はちらりとこっちを見ただけで、演奏を止めはしなかった。
『血に飢えた獣のはらわたを裂け……』
 仕方がないのでそのまま最後まで聴くことにした。
『赤い月が出た夜は密やかに闇の底へ帰る、アー、アー、アーァ、裸男爵』
 誰だよ裸男爵、と思わず突っ込みを入れたくなる。見事な歌声にそぐわない意味不明さだった。誰一人として神谷の演奏に足を止めようとしないのもわかる気がした。
 しばらく不思議な歌が続いた後、神谷はようやく歌い終え、
「久しぶりだな」
 淡々とした口調で言った。昔から感情を表に出さない奴だったが、内に秘めた音楽への情熱は誰よりも熱かった。
「いやびっくりしたよ。こんなところで弾き語りしてるとは。まだ音楽やってたんだな」
「お前はやってないのか?」神谷はわずかに首を傾げた。「結婚するなら相手はギターが良いなどと言ってたお前が、まさか止めたのか」
「やってるよ。休みには欠かさず弾いてる」
 そう答えると神谷は眉を上げて不可解そうな表情を見せた。
「なんで休みに弾くんだ」
 神谷がなんだか非難するような口調でそう言うので、皮肉の一つも言ってやろうと思い、
「毎日終電間際まで働いてて忙しいんだよ。お前みたいに暇じゃないんだ」
「暇なんてない」神谷は真面目な顔でそう答えた。「毎日夜勤がある。警備員をしてる」
「じゃあこのあと仕事なのか」
「いや」神谷はまた怪訝そうな顔をして、「仕事は今してる」
 よくわからないことを言い出した。少し考えてみて、どうやら弾き語りのことを仕事と言い張っているらしいことに思い至った。
「じゃあ警備員のほうは仕事じゃないのか? 何なんだ?」
「休みだ」
 神谷の返事は本気のようだった。そう言い切れる神谷のことを、馬鹿だと思うのと同時に、どこかうらやましくも感じていた。軽い嫉妬を隠すため、話題を変えてジェシカのことを語った。
「ビンテージのレスポール買ったんだよ。いいギターだ」
「そうか」
 神谷は意外にも興味がなさそうだった。自慢をしてやろうと思い、彼のギターに目を向けてみたが、
「あれ、お前このギター……」
 見覚えのあるギターだった。いや、そうだ。これは高校卒業の時に、形見と称して神谷に譲ったギターだ。
「キャサリンだ」
 神谷はギターのボディをそっと撫でた。キャサリンはあちこち傷つき、ペグには錆びが浮いていた。ヘッドの塗装は剥げてまだらになっており、神谷が今まで使い込んで来たことは明らかだった。
 高校時代にバイト代を貯め、ようやく買った中古ギターのキャサリン。初めて買ったギターだった。当時はギターの扱いも知らず、演奏テクニックもお粗末なものだった。ギターという楽器がどのように鳴り、どのように響くのか、それを一から教えてくれたのがキャサリンだった。
 あの頃は朝から晩まで弾いていた。授業をサボり、食事の時間も忘れて、ひたすらキャサリンを胸に抱いていた。他の何にも目が向くことのなかった真っ直ぐな時代に、ひどく切ない追慕の情を感じた。
「弾かせてもらえるか」
 そう尋ねると、神谷は黙ってキャサリンを差し出した。久しぶりに握ったネックは、なんだか一回り細くなった気がした。指を走らせると、キャサリンは懐かしそうにボディを震わせた。当時つたない指で演奏した曲を、なぞってみた。腹に伝わってくるキャサリンの躍動に、胸が詰まった。
 ギターは癒しなんかじゃなかった。あの頃何かわからないものへ立ち向かうための武器だった。キャサリンはそんな戦いの日々を覚えていた。ボディの傷の一つ一つがその勲章だった。神谷の手に渡ってからも、休みない長い戦いの日々を続けてきたのは明らかだった。キャサリンは身を軋ませながら、ひどくかすれる音色で鳴った。その音色は熟成とは程遠い。疲れ果ててボロボロになって、それでもなお立ち上がろうとする苦悶の声に似た、鬼気迫る音色だった。
 弾かない日こそが休日だという言葉は、当時自分が神谷に向かって吐いたものではなかったか。
「下手糞になったな」
 弾き終えてキャサリンを返した後、神谷がぽつりともらした感想は、それだけだった。

星の物語

 ジョンが印象的に覚えている教師の話は、星についてだった。
「かつて天には星が輝き、人々は星を見て物語を作った」
 今は亡き老教師のレスリーは頭上を覆う巨大なドームを指差しながらそう語った。
 幼いジョンたちは人工芝の小さな丘の上に車座を作って、老教師の話に耳を傾けていた。
「しかし『システム』は星を消した。太陽も、月も。我々が生きていくために必要なエネルギーを確保するためだ」
 薄暗い人工の森を覆う巨大なドームは灰色に薄汚れ、ところどころに黒くギザギザなひび割れが走っていた。
 ドームに星や太陽が映し出されなくなったのは随分と前のことだった。老いたレスリー教師にしても、実際に見たことはないが、と付け足した。
「先生、物語って何ですか?」
 ジョンは手を挙げてそう質問した。老教師はうなずきながら微笑んで、
「それは答えるのが難しい質問だ。『システム』は物語については何も教えてくれないからな。古い言い伝えでは、物語とは人の生き様を教えてくれるものだという」
 それからレスリー教師は子供たちの顔を見渡しながら続けた。
「幸いなことに、今では我々の生き方は全て『システム』が教えてくれる。皆も『システム』の指示を守り、この世界を平穏に保つのだぞ」
 老教師のいつもの締めの台詞を聞き流しながら、ジョンは星という誰も知らぬものに思いを巡らせていた。

 世界は閉ざされていた。
 大規模に汚染された地上を逃れ、わずか数百人となった人類は無機質な地下深いシェルターの中で生きながらえていた。
 シェルターで産まれ、一歩も外へ出ることなく死ぬことを繰り返し、数百年の歳月が過ぎるころには外界を模したドームが大自然と呼ばれた。ドームの電源が断たれてからは、人々は自然を忘れ去った。
 シェルターは大規模なコンピュータシステムによって管理されていた。
 人類を存続させることだけを最優先目的に設計された『システム』は、人々の食事内容、運動時間、さらには結婚相手についてまでも厳密に指示を出し、人々はそれに従って生きてきた。
 自由を捨てて『システム』に従うことが人類存続の唯一の方法だった。最初の数世代まではそのことを理解していたが、世代を重ねる毎に“何故従うのか”という目的は消失していった。今では『システム』の指示を無条件に守ることが絶対的な掟となっていた。

 ジョンはいつものように『システム』から指示された時間に部屋を出て、運動場へと向かった。ジョンの年齢の若者たちには、毎日六時間の運動が指示されていた。
 睡眠は九時間、食事は決まった時間に三度、残りは何もせずに過ごし、労働は一切なかった。
 『システム』は労働や肉体作業に伴う危険から、徹底的に人々を遠ざけていた。
 例えば、シェルターの動力炉は歳月を経て老朽化した結果、有害な放射線をまき散らしていたが、危険を冒して修理を試みるよりも、ただ人々を遠ざけて無駄な電力をカットするほうが人類存続に適切だと、『システム』は判断していた。動力炉や放射線の知識は学ぶ必要がないと見なされ、ジョンたちの世代ともなると、動力炉が全エネルギーの源だということは漠然と知っていても、人が踏み入ってはいけない危険な冥界のようなイメージを持っている程度だった。
 ジョンが居住区の白い廊下を抜け、運動場に続く長い通路に出てみると、行く手にリサの後姿が見えた。彼は足を早めて声をかけた。
「リサ、君も運動の時間かい」
「ジョン、良かった、一緒の時間で。『システム』の指示は完璧ね」
 美しく整った顔をほころばせながらリサはそう言い、それからジョンの顔をじっと見つめた。
「なんだか眼が腫れぼったいね。どうかしたの?」
「よく眠れなくて……」ジョンはリサと並んで歩きながら、言葉を濁らせた。「実は、その、例の指示がそろそろ出るだろ」
「ああ、そうね……」
 リサはうなずき、少し唇を噛んだ。ジョンの心配事はリサも理解していた。
 『システム』による結婚相手の指示が、まもなく出るはずだった。ジョンは両親や友人たちに、結婚相手はリサがいいと何度も話していた。リサも同じ気持ちだったが、誰に尋ねてみても、決定を下すのは『システム』だという回答以外は得られなかった。
「僕らは結婚できるのかな」ジョンは立ち止まってリサの手を取った。「それが心配で眠れないんだ」
 リサは少し硬い笑顔を返し、
「大丈夫よ、『システム』の指示に間違いはないわ。きっと結婚できる。私たちが愛し合ってることは『システム』だって理解してくれるはずよ」
 それから彼女はジョンの背に手を回し、二人の未来を守るかのように、きつく抱きしめた。

 数字とロジックだけで組み立てられた『システム』が、愛を理解しようはずもなかった。
 自室に届いた結婚の指示に、ジョンは完全に打ちのめされた。相手はリサではなく、会ったこともない知らない女だった。
「リサ、これは何かの間違いだ、こんなのあり得ない、どうにかしなくちゃ……」
 取り乱した声で電話をかけた彼に、
「ジョン、『システム』が決めたことよ……」
 リサの返事は冷静だった。しかし無理に押しつぶしたような声には、苦悩が混じっていた。
「諦めましょう、ジョン。私たちはきっと間違っていたの。そう思うしかないのよ」
「駄目だ、駄目だ! 何か方法があるはずだ、何か……」
 ジョンは頭をかきむしり、部屋中をぐるぐると歩き回った。
 『システム』への絶対服従という身に染み付いた考えに対して、初めて反発心が沸き起こった。
「何故自由に生きられないんだ……」
 そう独白した彼の脳裏に浮んできたのは、幼い頃に聞いた星の話だった。
――人々は星を見て、物語を作った。物語とは人の生き様を教えてくれる――
「そうか、星だ……」
「え?」
 唐突な彼のつぶやきに戸惑うリサの声に、ジョンは受話器を握りなおし、
「星だよ、リサ。星があれば物語を作れるんだ。レスリー先生から聞いた話だよ。物語は人の生き様なんだって。星があれば、どう生きるかを選べるってことだと思う……」
 そう言葉にしてみると、彼は自分の考えが正しいものだという気がしてきた。
「ジョン、何を言っているの? お願い、落ち着いて、ジョン」
 電話の向こうからリサの泣き声が聞こえる。ジョンは声を落ち着かせて、
「大丈夫だよ。星さえ取り戻すことができれば。きっと、そうすれば僕らは自由に生きられる」
 ジョンは目まぐるしく回り始めた思考を整理しながら、次にすべきことを考えた。
「星が消えたのはエネルギーが足りないせいだって、先生は言ってた。……なら、エネルギーを使えば星を取り戻せるかもしれない」
 シェルターのエネルギーが全て最下層の動力炉で生み出されていることは、彼も理解していた。
「動力炉に行くよ」ジョンは言った。「エネルギーを手に入れられるかどうか試してみる」
 即座に悲鳴に似たリサの声が返ってきた。
「駄目よ、危険だわ! あそこに行ったら無事では済まないって聞いたわ。生きて帰ってきても、少しずつ身体が溶けてしまうんだって……」
「君と生きるためならどんな危険があったっていい」ジョンはきっぱりとそう言って、それから声を和らげて続けた。「心配しないで待ってて。星が戻ったら、一緒に物語を作ろう」
 電話を切り、彼は部屋を飛び出した。

 動力炉へと続く通路は、ドームを挟んで居住区の反対側にあった。ジョンはドームを見上げて歩きながら、星とはどのような美しいものだろうかと想像を巡らせた。
 幾重にも針金が巻かれた鉄の扉をこじ開け、暗い通路に踏み入ると、足元に降り積もった埃が舞い上がった。
緩やかに下っていく通路の先は、完全な闇に沈んでいた。
 勇気を奮い起こすように歯を噛み締め、彼は闇の底を目指した。
 いくつかの通路を進み、何段もの階段を降りた。闇と静寂の中、幾度となく彼は自分がとてつもない間違いを犯しているのではないかという不安に襲われた。そのたびにリサのことを想い、星のことを想った。
 低く唸るような振動音が足下の暗闇から響いてくると、彼は目的地が近いことを知った。もはや引き返すことは考えまいと、最後の覚悟を決めた。
 果てしないほど続いた階段は大きな扉で終点だった。その先には分厚く冷たいコンクリートの壁に覆われた通路が幾重にも折れ曲がって続いていた。低い振動音はすぐそこまで迫っていた。
 最後の曲がり角を曲がると、ドームの広間に匹敵するほどの大きな空間が開けた。
 ジョンはゆっくりと歩を進めた。巨大なミキサーのような鉄の塊が中央にそびえ立ち、低い唸りを上げていた。
その下にはなみなみと水をたたえたプールが広がり、鉄塊の下半分は水の底に沈んでいて見えなかった。
 プールはぼんやりとした青く美しい光を放ち、鉄塊の輪郭を浮き上がらせていた。
「綺麗だ……」
 幻想的な光を浴びながら、この美しい光こそが星の源に違いない、とジョンは考えた。
 光の中心は水中深くに沈んでいて、手の届く距離ではなかった。周囲を見回すと、奥の壁際に“排水”と書かれたバルブが見えた。彼は迷うことなくバルブに手をかけると、いっぱいまで一気に回した。
 激しい水音とともに、青い光の渦を描きながら、プールの水位がぐんぐんと下がっていった。
 突然真っ赤なライトが点灯し、不気味なブザー音が鳴り響く。同時に機械的な女の声が頭上から降り注いだ。
「警告! 冷却水水位が下降中。温度・出力上昇中。第一リミッター動作不良です。ただちに退去して下さい」
 ジョンも何度か耳にしたことのある『システム』の声だった。
「もう指示には従わない!」ジョンは大きく手を広げて叫んだ。「僕は星を取り戻す! 自分の物語を作る!」
「第二、第三リミッター動作不良。出力臨界に達します。ただちに退去して下さい」
 『システム』の声が響く中、ジョンは微笑みながら頭上を振り仰ぎ、やがて激しい光が解き放たれるのを見た。

 突き上げる衝撃と耳をつんざく爆発音とがシェルターを襲った。
 電灯が一斉に消え、立っていられないほどの激しい揺れがひとしきり続き、その後には不気味なまでの静寂が訪れた。
 人々は慌てふためき『システム』の指示を渇望したが、どれだけ待とうとも『システム』からの指示はなかった。
 恐る恐る部屋から出てみると、人々はドームから先が完全に消滅していることに気がついた。灰色にひび割れていたドームの天井は崩れ落ち、動力炉への扉は土砂とコンクリートに埋もれていた。
 崩れ落ちた天井の向こうには青黒い空間が広がり、小さく瞬く無数の美しい光が散らばっていた。
 夜空を彩る本物の星だった。
 瓦礫の山を這い登り、数百年ぶりに地上にさ迷い出た人々は、黒々とした果てしない地平と、頭上を覆い尽くす数限りない星々を目の当たりにした。
「一体何が起こったんだ?」
 そんな人々の疑問に答えることができたのは唯一リサだけだった。
「ジョンよ。ジョンが星を取り戻したの……」
 リサは語った。自由を求めた彼の言葉を。星を取り戻すための彼の無謀な挑戦を。星空の下で人々はその話に熱心に耳を傾けた。

 そしていつしかジョンは、人類の新たな最初の物語となった。

全力でむしれ


「もうむしり疲れたよ兄貴・・・・・・」
 修二の指はすっかりふやけて赤くなっていた。
 しかし兄の雄一は険しい表情で、決して手を休めない。
「黙ってむしるんだ。わかってるだろ」
 修二はもう投げ出してしまいたかったが、勝負がもう引き返せないところまでヒートアップしてしまっていることも理解していた。さらに言えば、プライドが人一倍強い雄一には、ギブアップなどという概念が無いことも、弟である修二が一番よく知っていた。
 「手を動かせ!」
 兄の殺気だった声に急かされて、修二は已む無く手を伸ばした。
 二人の前にこんもりと積まれた茹でガニの山。
 修二は指に食い込むトゲの痛みに耐えながら、また一本、カニの足をむしった。

 修二たち兄弟が大量のカニをむしる事態に陥ったのは、たまたまお互いの休みが重なったのがきっかけだった。
 お互い霞ヶ関の省庁勤めで仕事が忙しく、普段はのんびり語り合うこともない兄弟だったが、年明けの業務が一段落した後のある週末、ちょうど同じ日程で三連休が取れたので、
「たまには一緒に出かけてみるか」
 どちらともなくそんな話になったのである。
 共通の趣味があるわけでもなく、なんとなく海へ行こうという話になり、兄の車で隣県の小さな港町までやってきたのだが、通りかかった漁港の入り口に『港祭りへようこそ』の横断幕がはためいているのを見て、新鮮な魚介類が安く買えるのかと、軽い気持ちで立ち寄ったのだった。
 水揚げしたばかりの魚や貝が売られている露店をひやかしながら歩いていると、不意にダミ声が二人を呼び止めた。
カニむしり競争に参加してみんかね?」
 振り向くと、健康そうに日焼けした中年男と、若い女が立っていた。男のほうは黒いビニールのエプロンを身に付けていてがっしりした体つきはいかにも漁師といった感じだった。女のほうは、男の娘だろうか、赤いバンダナで髪をまとめ、化粧気はないがチャーミングな笑顔が冬空の下でも眩しかった。
「競争?って?」
 娘の人懐こい笑顔に引き込まれるように、修二はつい聞き返してしまった。
カニむしり競争だよ。タラバガニの足を5分間で何本むしれるか競争すんだわ」
 そう言って中年男が指し示すほうを見ると、露店を抜けた先に小さなステージがあった。
「優勝者にはむしったカニを全部無料で差し上げてます。どれだけむしってもタダですよ。タラバガニお嫌いじゃなければ是非」
 畳み掛けるように若い娘のほうが誘う。
「タラバか・・・・・・」
 兄の雄一が思案するようにつぶやく。雄一はタラバガニに限らず、カニが好物だった。
「やってみる?」
 修二はタラバガニよりも娘の笑顔に釣られて兄に尋ねた。雄一は早くもカニの味を想像しているのか、唇を引っ込めて舌で舐めていた。
 二人がその気になってきたとき、ダミ声男が思い出したように、
「優勝者は無料だけども、二位以下は買い取りだよ・・・・・・と言っても相場の半額以下だけども」
 そう言って同意を求めるように娘のほうを見やった。
「父さんが言うと何だか押し売りみたいな話に聞こえちゃいますけど、普段は安売りなんてしない高級タラバですよ」
 娘が可愛らしく笑いながらそう取り繕ったものの、参加をためらわせるには十分だった。
「うーん、地元の人も出るんだろう? カニさばくのに慣れてるような。こっちは素人なんだから勝ち目ないだろ」
 雄一がそう言って断ろうとすると、
「じゃあ二人一組ってことでどうですか」にこにこ笑顔を絶やさずにヨウコが言う。「地元の人ばっかりだと盛り上がらないから。この港のカニは美味しいって宣伝したいんですよ。二人組はちょっとずるいかもしれないけど、お客さんに勝ってもらったほうが宣伝になるし。・・・・・・いいでしょ、父さん」
「まあ、ヨウコがそう言うなら・・・・・・」
 中年男は頭を掻きながらも同意した。
 修二は娘の笑顔を眺めながら、ヨウコとは陽子か、洋子か、どちらにしても似合いの名だなと考えていたが、
「そういうことならやってみるか、な?」
 雄一があごをなでながら、修二のほうに目を向けたので、我に返ってうなずいた。
「ありがとう。じゃ、こっちで参加用紙に記入して下さい」
 ヨウコにうながされ、二人はカニむしり競争の会場へと向かった。
「お前、まとめて書いとけ」
 参加用紙を修二に押し付け、雄一はさっさとステージの上のカニの山へと向かった。何事も手を抜かずに取り組む兄のことだから、効率よくカニをむしる作戦でも立てているのだろうと修二は苦笑した。
 氏名と年齢、職業を書いて参加用紙をヨウコに手渡す。
 ヨウコは用紙を見て、少し心配そうな表情を見せた。
「公務員、って警察とかそういうお仕事なんですか?」
「いやいや。経産省の小役人です。兄貴は外務省」
「うわ、エリートさんだ」
 ヨウコは目をまん丸にしてまじまじと見つめてくるので、修二は少々どぎまぎしてしまった。職場にも綺麗な女性は少なくはないが、この娘の健康的で素朴そうな雰囲気は新鮮な魅力だった。
「いや、ほんと、まだ二年目だからただの雑用係ですよ。結構泥臭い仕事も多いし、エリートなんかじゃ」
「そうですかー、すごいなー」
 ヨウコは用紙に目を戻すと、髪が落ちてなめらかなうなじが見えた。修二は目を泳がせながら、
「さっきはありがとう」
「え?」
「二人一組ってことにしてくれたから」
 そう言って微笑んでみせたが、何故かヨウコは口を引き結んで少し俯いた。わずかに首を傾げて、考え込んでいるようにも見えた。何かまずいことを言ってしまったかと修二が慌てて取り繕おうとした時、兄が呼ぶ声がした。
「おい修二、お前も来い。コツがわかったぞ」
「コツって・・・・・・うわ兄貴、もうむしってんのかよ!」
 雄一は角度がどうとかつぶやきながらカニの足をむしりとっていた。慌ててステージに向かおうとした修二の耳に、
「ごめんなさい・・・・・・」
 そう謝るヨウコの微かな声が届いた。
「ごめんって、何が・・・・・・」
 修二が振り向くと、ヨウコはすでに背を向けて立ち去っていくところだった。

 雄一のフライングはあくまでも練習ということで大目に見てもらい、いよいよカニむしり競争の本番だった。
 他の参加者はどうやら全員地元民らしく、二人一組なのは修二たちだけだった。
 各参加者の前にはうず高くつまれた茹でガニの山、そしてデジタル式の重量計が置いてあり、むしったカニはリアルタイムに計測していくことになる。
「さあ、参加者の皆さん、準備はいいですかー!」
 ねじり鉢巻をしめた威勢の良い若者が、メガホン片手に司会進行を勤める。
 修二はどうにも集中できず、ステージの前に集まった何十人かの群集の中に、ヨウコの姿を捜し求めていた。
 ――居た。
 観客席の右、やや後方辺りにたたずんでいた。表情は暗く、思い悩んでいるかのように視線をさ迷わせていた。
「さん、にー、いち、スタート!」
 メガホンの声を合図に、参加者が一斉にカニに手を伸ばす。
 慌てて修二も目の前のカニをつかみ、力任せに足を引っ張ったが、関節部分がしぶとくつながっていて、一本目に手間取った。
「角度が違う。だから練習しとけと言っただろ!」
 雄一の叱責が飛んでくる。兄の見よう見まねで、突起の部分をテコにしてひねると、小気味良い音を立ててもげた。コツを飲み込めばなんということはない。むしった足を片っ端から重量計の上に積み上げていく。重量計の数字はみるみる跳ね上がって、二千に近づいた。
「ペース落とせ。様子見だ。このくらいの量なら負けても問題ない額だからな」
 兄の冷静な声に、修二は夢中で動かしていた手を止めた。他の参加者の様子をうかがい、観客席にも目を向けた。
 ヨウコは先ほどと変わらない様子で唇を引き結び、何か迷っているのか、そわそわと手を動かしている。
「二分経過! ここで、おーっと、現在トップは兄弟チーム! 二位以下を大きく引き離して圧倒的リードだー!」
 メガホンががなりたてる。
 雄一はにやりと笑って、
「よし、どうやら勝てそうだ、追いつかれない程度にむしっとけ」
 指示されるままに修二はカニをむしる。重量計の数字は二千を越え、じりじりと上昇していく。
 むしる、むしる、むしる・・・・・・。染み出してくる汁で手がふやけてくると、食い込んでくる硬いトゲに、修二は少しずつ辛くなってきた。
「兄貴、これくらいでもういいんじゃ・・・・・・」
 言いかけた修二の声をメガホンが遮る。
「おーっと! 追いついてきたぞー! カニむしりの鬼、マサやんの猛烈な追い上げー!」
 見れば真っ黒に日焼けした壮年の男が、まるで機械のように黙々と一定のリズムでカニの足を次々にむしっている。
「ペースあげろ!」
 雄一が猛然とむしる速度を上げる。重量計は三千を越え、なおも上昇していく。
「兄弟チームが逃げ切るか、それともマサやんが追いつくかー! 残りは二分!」
 修二の手はもうふやけて真っ赤だった。カニの足を握ると痛いので、指先だけでどうにかむしり続けた。重量計は四千を越え、五千に近づいていく。
「おーっと! マサやんの必殺『四本むしり』が出たー!」
 マサやんが無表情のまま、同時に四本の足を正確無比にみしみしとむしっていく。重量計は五千、六千と跳ね上がる。
「兄貴、もうむしり疲れた・・・・・・」
「黙ってむしるんだ。わかってるだろ。もう現金じゃ払い切れないところまで来てるんだ! 手を動かせ!」
 七千、八千、九千・・・・・・重量計の数字はどんどん上がっていく。
「おーっと、マサやんが十キロの大台に乗ったー! 逆転です! 残りの一分で兄弟チームの再逆転なるか!」
 メガホンの声に、修二は打ちのめされた。ボロボロになった手で、どう頑張っても勝てるとは思えなかった。さすがの雄一も青い顔をしていた。
 それでも必死にむしり続け、どうにか十キロまでは追いついたものの、マサやんはとうに十二キロに到達していた。
「どうやら今年もマサやんの優勝か、残り時間は二十秒・・・・・・十秒・・・・・・五、四、三・・・・・・」
 最後のカウントダウンが開始されたその時、
「もうやめてよ!」
 女性の叫び声がメガホンを遮った。
 修二がはっとして顔を上げると、声の主はヨウコだった。
「もうやめてよ! こんなの詐欺と一緒だよ! マサやんに勝てるわけないじゃない。全国カニむしりチャンピオンなんだから。それを隠して、何も知らない人に、全部買い取らせようなんておかしいよ」
 その場にいた全員が唖然として彼女を見つめていたが、ヨウコの父が、
「おいヨウコ、お前、何を言い出すんだ・・・・・・」
 おろおろしながらつかんだ腕を振り解いて、ヨウコはさらに叫ぶ。
「それだけじゃないでしょ。そのカニ、タラバガニなんかじゃない。アブラガニよ。旬が過ぎて売れなくなったアブラガニを、騙して高く売ろうとしたの」
 ヨウコはそれから、修二のほうを振り向き、少し赤く潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめながら、
「ごめんなさい」
 そう言った。
 修二には全てが腑に落ちた。ヨウコがステージ前で謝ったこと、観客席でずっと思い悩んでいたこと、港ぐるみの詐欺行に対して良心を痛めていたのだと。

 結局カニむしり競争はそのまま終了となった。
 雄一はかなり腹を立てていたが、大量のアブラガニやその他海の幸と引き換えに、事を公にしないでくれと泣き付かれ、最終的にはしぶしぶ矛を収めてくれた。
 修二はやたらと頭を下げてくる港の人々を兄に任せて、一人離れて立っているヨウコのところへ向かった。
「本当にごめんなさい」
 ヨウコがまた謝罪を口にする。
「いや、君が謝ることはないでしょう。こっちがお礼を言わなきゃ。勇敢だったと思う」
 閉鎖的な田舎の町で周囲に逆らって声を挙げるのは、並大抵の勇気では出来ないことだと、修二は心底感心していた。
「そんなんじゃないんです。だって私・・・・・・」ヨウコは口ごもり、それから笑顔を取り繕って、「こんなこと言えた義理じゃないですけど、お願いですから、海を、嫌いになんてならないで下さいね」
 あくまでも純真な言葉を貫くヨウコに、修二は何もかもを優しく包み込む海の深さを見た気がした。

 それ以来、修二はその港に足を運ぶことこそなかったが、ヨウコとはその後も密かに連絡を取り合い、
「あれから町の人たちの風当たりが強くって・・・・・・」
 などと電話口の向こうで笑う彼女に、いっそ東京に出てくればいいと本気で勧めたりもした。
 都会の計算高い女性にはない、ヨウコの素直で純朴な言動に本気で惹かれ、
「いやあ、海ってのはいいもんなんだよ・・・・・・」
 おおらかで開放的な土地柄が、暖かな人格を造るのだなどと、同僚たちに語ったりしたものだった。
 そんなある日。
 久しぶりに兄の雄一と顔を合わせる機会があった。
「例の港だがな」開口一番、雄一は苦い口調で切り出した。「こないだ付き合いであの港に行ってな、あの時のカニむしりチャンピオンに会ったんだよ。奴から聞いた話じゃ、カニむしり競争のカラクリは全部あのヨウコとかいう女が考えたことらしいぞ。言われてみれば、最初に積極的に参加を勧めてたのはあの女だった。お前が省庁勤めだと知ってから、コロリと態度が変わっただろ。お前の気を引いて、玉の輿を狙ったんだ。何もかも計算ずくで、お前からむしれるだけむしろうと演技してたんだよ・・・・・・おい、何でお前泣いてんだ?」

 修二は海が大嫌いになった。