全力でむしれ


「もうむしり疲れたよ兄貴・・・・・・」
 修二の指はすっかりふやけて赤くなっていた。
 しかし兄の雄一は険しい表情で、決して手を休めない。
「黙ってむしるんだ。わかってるだろ」
 修二はもう投げ出してしまいたかったが、勝負がもう引き返せないところまでヒートアップしてしまっていることも理解していた。さらに言えば、プライドが人一倍強い雄一には、ギブアップなどという概念が無いことも、弟である修二が一番よく知っていた。
 「手を動かせ!」
 兄の殺気だった声に急かされて、修二は已む無く手を伸ばした。
 二人の前にこんもりと積まれた茹でガニの山。
 修二は指に食い込むトゲの痛みに耐えながら、また一本、カニの足をむしった。

 修二たち兄弟が大量のカニをむしる事態に陥ったのは、たまたまお互いの休みが重なったのがきっかけだった。
 お互い霞ヶ関の省庁勤めで仕事が忙しく、普段はのんびり語り合うこともない兄弟だったが、年明けの業務が一段落した後のある週末、ちょうど同じ日程で三連休が取れたので、
「たまには一緒に出かけてみるか」
 どちらともなくそんな話になったのである。
 共通の趣味があるわけでもなく、なんとなく海へ行こうという話になり、兄の車で隣県の小さな港町までやってきたのだが、通りかかった漁港の入り口に『港祭りへようこそ』の横断幕がはためいているのを見て、新鮮な魚介類が安く買えるのかと、軽い気持ちで立ち寄ったのだった。
 水揚げしたばかりの魚や貝が売られている露店をひやかしながら歩いていると、不意にダミ声が二人を呼び止めた。
カニむしり競争に参加してみんかね?」
 振り向くと、健康そうに日焼けした中年男と、若い女が立っていた。男のほうは黒いビニールのエプロンを身に付けていてがっしりした体つきはいかにも漁師といった感じだった。女のほうは、男の娘だろうか、赤いバンダナで髪をまとめ、化粧気はないがチャーミングな笑顔が冬空の下でも眩しかった。
「競争?って?」
 娘の人懐こい笑顔に引き込まれるように、修二はつい聞き返してしまった。
カニむしり競争だよ。タラバガニの足を5分間で何本むしれるか競争すんだわ」
 そう言って中年男が指し示すほうを見ると、露店を抜けた先に小さなステージがあった。
「優勝者にはむしったカニを全部無料で差し上げてます。どれだけむしってもタダですよ。タラバガニお嫌いじゃなければ是非」
 畳み掛けるように若い娘のほうが誘う。
「タラバか・・・・・・」
 兄の雄一が思案するようにつぶやく。雄一はタラバガニに限らず、カニが好物だった。
「やってみる?」
 修二はタラバガニよりも娘の笑顔に釣られて兄に尋ねた。雄一は早くもカニの味を想像しているのか、唇を引っ込めて舌で舐めていた。
 二人がその気になってきたとき、ダミ声男が思い出したように、
「優勝者は無料だけども、二位以下は買い取りだよ・・・・・・と言っても相場の半額以下だけども」
 そう言って同意を求めるように娘のほうを見やった。
「父さんが言うと何だか押し売りみたいな話に聞こえちゃいますけど、普段は安売りなんてしない高級タラバですよ」
 娘が可愛らしく笑いながらそう取り繕ったものの、参加をためらわせるには十分だった。
「うーん、地元の人も出るんだろう? カニさばくのに慣れてるような。こっちは素人なんだから勝ち目ないだろ」
 雄一がそう言って断ろうとすると、
「じゃあ二人一組ってことでどうですか」にこにこ笑顔を絶やさずにヨウコが言う。「地元の人ばっかりだと盛り上がらないから。この港のカニは美味しいって宣伝したいんですよ。二人組はちょっとずるいかもしれないけど、お客さんに勝ってもらったほうが宣伝になるし。・・・・・・いいでしょ、父さん」
「まあ、ヨウコがそう言うなら・・・・・・」
 中年男は頭を掻きながらも同意した。
 修二は娘の笑顔を眺めながら、ヨウコとは陽子か、洋子か、どちらにしても似合いの名だなと考えていたが、
「そういうことならやってみるか、な?」
 雄一があごをなでながら、修二のほうに目を向けたので、我に返ってうなずいた。
「ありがとう。じゃ、こっちで参加用紙に記入して下さい」
 ヨウコにうながされ、二人はカニむしり競争の会場へと向かった。
「お前、まとめて書いとけ」
 参加用紙を修二に押し付け、雄一はさっさとステージの上のカニの山へと向かった。何事も手を抜かずに取り組む兄のことだから、効率よくカニをむしる作戦でも立てているのだろうと修二は苦笑した。
 氏名と年齢、職業を書いて参加用紙をヨウコに手渡す。
 ヨウコは用紙を見て、少し心配そうな表情を見せた。
「公務員、って警察とかそういうお仕事なんですか?」
「いやいや。経産省の小役人です。兄貴は外務省」
「うわ、エリートさんだ」
 ヨウコは目をまん丸にしてまじまじと見つめてくるので、修二は少々どぎまぎしてしまった。職場にも綺麗な女性は少なくはないが、この娘の健康的で素朴そうな雰囲気は新鮮な魅力だった。
「いや、ほんと、まだ二年目だからただの雑用係ですよ。結構泥臭い仕事も多いし、エリートなんかじゃ」
「そうですかー、すごいなー」
 ヨウコは用紙に目を戻すと、髪が落ちてなめらかなうなじが見えた。修二は目を泳がせながら、
「さっきはありがとう」
「え?」
「二人一組ってことにしてくれたから」
 そう言って微笑んでみせたが、何故かヨウコは口を引き結んで少し俯いた。わずかに首を傾げて、考え込んでいるようにも見えた。何かまずいことを言ってしまったかと修二が慌てて取り繕おうとした時、兄が呼ぶ声がした。
「おい修二、お前も来い。コツがわかったぞ」
「コツって・・・・・・うわ兄貴、もうむしってんのかよ!」
 雄一は角度がどうとかつぶやきながらカニの足をむしりとっていた。慌ててステージに向かおうとした修二の耳に、
「ごめんなさい・・・・・・」
 そう謝るヨウコの微かな声が届いた。
「ごめんって、何が・・・・・・」
 修二が振り向くと、ヨウコはすでに背を向けて立ち去っていくところだった。

 雄一のフライングはあくまでも練習ということで大目に見てもらい、いよいよカニむしり競争の本番だった。
 他の参加者はどうやら全員地元民らしく、二人一組なのは修二たちだけだった。
 各参加者の前にはうず高くつまれた茹でガニの山、そしてデジタル式の重量計が置いてあり、むしったカニはリアルタイムに計測していくことになる。
「さあ、参加者の皆さん、準備はいいですかー!」
 ねじり鉢巻をしめた威勢の良い若者が、メガホン片手に司会進行を勤める。
 修二はどうにも集中できず、ステージの前に集まった何十人かの群集の中に、ヨウコの姿を捜し求めていた。
 ――居た。
 観客席の右、やや後方辺りにたたずんでいた。表情は暗く、思い悩んでいるかのように視線をさ迷わせていた。
「さん、にー、いち、スタート!」
 メガホンの声を合図に、参加者が一斉にカニに手を伸ばす。
 慌てて修二も目の前のカニをつかみ、力任せに足を引っ張ったが、関節部分がしぶとくつながっていて、一本目に手間取った。
「角度が違う。だから練習しとけと言っただろ!」
 雄一の叱責が飛んでくる。兄の見よう見まねで、突起の部分をテコにしてひねると、小気味良い音を立ててもげた。コツを飲み込めばなんということはない。むしった足を片っ端から重量計の上に積み上げていく。重量計の数字はみるみる跳ね上がって、二千に近づいた。
「ペース落とせ。様子見だ。このくらいの量なら負けても問題ない額だからな」
 兄の冷静な声に、修二は夢中で動かしていた手を止めた。他の参加者の様子をうかがい、観客席にも目を向けた。
 ヨウコは先ほどと変わらない様子で唇を引き結び、何か迷っているのか、そわそわと手を動かしている。
「二分経過! ここで、おーっと、現在トップは兄弟チーム! 二位以下を大きく引き離して圧倒的リードだー!」
 メガホンががなりたてる。
 雄一はにやりと笑って、
「よし、どうやら勝てそうだ、追いつかれない程度にむしっとけ」
 指示されるままに修二はカニをむしる。重量計の数字は二千を越え、じりじりと上昇していく。
 むしる、むしる、むしる・・・・・・。染み出してくる汁で手がふやけてくると、食い込んでくる硬いトゲに、修二は少しずつ辛くなってきた。
「兄貴、これくらいでもういいんじゃ・・・・・・」
 言いかけた修二の声をメガホンが遮る。
「おーっと! 追いついてきたぞー! カニむしりの鬼、マサやんの猛烈な追い上げー!」
 見れば真っ黒に日焼けした壮年の男が、まるで機械のように黙々と一定のリズムでカニの足を次々にむしっている。
「ペースあげろ!」
 雄一が猛然とむしる速度を上げる。重量計は三千を越え、なおも上昇していく。
「兄弟チームが逃げ切るか、それともマサやんが追いつくかー! 残りは二分!」
 修二の手はもうふやけて真っ赤だった。カニの足を握ると痛いので、指先だけでどうにかむしり続けた。重量計は四千を越え、五千に近づいていく。
「おーっと! マサやんの必殺『四本むしり』が出たー!」
 マサやんが無表情のまま、同時に四本の足を正確無比にみしみしとむしっていく。重量計は五千、六千と跳ね上がる。
「兄貴、もうむしり疲れた・・・・・・」
「黙ってむしるんだ。わかってるだろ。もう現金じゃ払い切れないところまで来てるんだ! 手を動かせ!」
 七千、八千、九千・・・・・・重量計の数字はどんどん上がっていく。
「おーっと、マサやんが十キロの大台に乗ったー! 逆転です! 残りの一分で兄弟チームの再逆転なるか!」
 メガホンの声に、修二は打ちのめされた。ボロボロになった手で、どう頑張っても勝てるとは思えなかった。さすがの雄一も青い顔をしていた。
 それでも必死にむしり続け、どうにか十キロまでは追いついたものの、マサやんはとうに十二キロに到達していた。
「どうやら今年もマサやんの優勝か、残り時間は二十秒・・・・・・十秒・・・・・・五、四、三・・・・・・」
 最後のカウントダウンが開始されたその時、
「もうやめてよ!」
 女性の叫び声がメガホンを遮った。
 修二がはっとして顔を上げると、声の主はヨウコだった。
「もうやめてよ! こんなの詐欺と一緒だよ! マサやんに勝てるわけないじゃない。全国カニむしりチャンピオンなんだから。それを隠して、何も知らない人に、全部買い取らせようなんておかしいよ」
 その場にいた全員が唖然として彼女を見つめていたが、ヨウコの父が、
「おいヨウコ、お前、何を言い出すんだ・・・・・・」
 おろおろしながらつかんだ腕を振り解いて、ヨウコはさらに叫ぶ。
「それだけじゃないでしょ。そのカニ、タラバガニなんかじゃない。アブラガニよ。旬が過ぎて売れなくなったアブラガニを、騙して高く売ろうとしたの」
 ヨウコはそれから、修二のほうを振り向き、少し赤く潤んだ瞳で真っ直ぐに見つめながら、
「ごめんなさい」
 そう言った。
 修二には全てが腑に落ちた。ヨウコがステージ前で謝ったこと、観客席でずっと思い悩んでいたこと、港ぐるみの詐欺行に対して良心を痛めていたのだと。

 結局カニむしり競争はそのまま終了となった。
 雄一はかなり腹を立てていたが、大量のアブラガニやその他海の幸と引き換えに、事を公にしないでくれと泣き付かれ、最終的にはしぶしぶ矛を収めてくれた。
 修二はやたらと頭を下げてくる港の人々を兄に任せて、一人離れて立っているヨウコのところへ向かった。
「本当にごめんなさい」
 ヨウコがまた謝罪を口にする。
「いや、君が謝ることはないでしょう。こっちがお礼を言わなきゃ。勇敢だったと思う」
 閉鎖的な田舎の町で周囲に逆らって声を挙げるのは、並大抵の勇気では出来ないことだと、修二は心底感心していた。
「そんなんじゃないんです。だって私・・・・・・」ヨウコは口ごもり、それから笑顔を取り繕って、「こんなこと言えた義理じゃないですけど、お願いですから、海を、嫌いになんてならないで下さいね」
 あくまでも純真な言葉を貫くヨウコに、修二は何もかもを優しく包み込む海の深さを見た気がした。

 それ以来、修二はその港に足を運ぶことこそなかったが、ヨウコとはその後も密かに連絡を取り合い、
「あれから町の人たちの風当たりが強くって・・・・・・」
 などと電話口の向こうで笑う彼女に、いっそ東京に出てくればいいと本気で勧めたりもした。
 都会の計算高い女性にはない、ヨウコの素直で純朴な言動に本気で惹かれ、
「いやあ、海ってのはいいもんなんだよ・・・・・・」
 おおらかで開放的な土地柄が、暖かな人格を造るのだなどと、同僚たちに語ったりしたものだった。
 そんなある日。
 久しぶりに兄の雄一と顔を合わせる機会があった。
「例の港だがな」開口一番、雄一は苦い口調で切り出した。「こないだ付き合いであの港に行ってな、あの時のカニむしりチャンピオンに会ったんだよ。奴から聞いた話じゃ、カニむしり競争のカラクリは全部あのヨウコとかいう女が考えたことらしいぞ。言われてみれば、最初に積極的に参加を勧めてたのはあの女だった。お前が省庁勤めだと知ってから、コロリと態度が変わっただろ。お前の気を引いて、玉の輿を狙ったんだ。何もかも計算ずくで、お前からむしれるだけむしろうと演技してたんだよ・・・・・・おい、何でお前泣いてんだ?」

 修二は海が大嫌いになった。