星の物語

 ジョンが印象的に覚えている教師の話は、星についてだった。
「かつて天には星が輝き、人々は星を見て物語を作った」
 今は亡き老教師のレスリーは頭上を覆う巨大なドームを指差しながらそう語った。
 幼いジョンたちは人工芝の小さな丘の上に車座を作って、老教師の話に耳を傾けていた。
「しかし『システム』は星を消した。太陽も、月も。我々が生きていくために必要なエネルギーを確保するためだ」
 薄暗い人工の森を覆う巨大なドームは灰色に薄汚れ、ところどころに黒くギザギザなひび割れが走っていた。
 ドームに星や太陽が映し出されなくなったのは随分と前のことだった。老いたレスリー教師にしても、実際に見たことはないが、と付け足した。
「先生、物語って何ですか?」
 ジョンは手を挙げてそう質問した。老教師はうなずきながら微笑んで、
「それは答えるのが難しい質問だ。『システム』は物語については何も教えてくれないからな。古い言い伝えでは、物語とは人の生き様を教えてくれるものだという」
 それからレスリー教師は子供たちの顔を見渡しながら続けた。
「幸いなことに、今では我々の生き方は全て『システム』が教えてくれる。皆も『システム』の指示を守り、この世界を平穏に保つのだぞ」
 老教師のいつもの締めの台詞を聞き流しながら、ジョンは星という誰も知らぬものに思いを巡らせていた。

 世界は閉ざされていた。
 大規模に汚染された地上を逃れ、わずか数百人となった人類は無機質な地下深いシェルターの中で生きながらえていた。
 シェルターで産まれ、一歩も外へ出ることなく死ぬことを繰り返し、数百年の歳月が過ぎるころには外界を模したドームが大自然と呼ばれた。ドームの電源が断たれてからは、人々は自然を忘れ去った。
 シェルターは大規模なコンピュータシステムによって管理されていた。
 人類を存続させることだけを最優先目的に設計された『システム』は、人々の食事内容、運動時間、さらには結婚相手についてまでも厳密に指示を出し、人々はそれに従って生きてきた。
 自由を捨てて『システム』に従うことが人類存続の唯一の方法だった。最初の数世代まではそのことを理解していたが、世代を重ねる毎に“何故従うのか”という目的は消失していった。今では『システム』の指示を無条件に守ることが絶対的な掟となっていた。

 ジョンはいつものように『システム』から指示された時間に部屋を出て、運動場へと向かった。ジョンの年齢の若者たちには、毎日六時間の運動が指示されていた。
 睡眠は九時間、食事は決まった時間に三度、残りは何もせずに過ごし、労働は一切なかった。
 『システム』は労働や肉体作業に伴う危険から、徹底的に人々を遠ざけていた。
 例えば、シェルターの動力炉は歳月を経て老朽化した結果、有害な放射線をまき散らしていたが、危険を冒して修理を試みるよりも、ただ人々を遠ざけて無駄な電力をカットするほうが人類存続に適切だと、『システム』は判断していた。動力炉や放射線の知識は学ぶ必要がないと見なされ、ジョンたちの世代ともなると、動力炉が全エネルギーの源だということは漠然と知っていても、人が踏み入ってはいけない危険な冥界のようなイメージを持っている程度だった。
 ジョンが居住区の白い廊下を抜け、運動場に続く長い通路に出てみると、行く手にリサの後姿が見えた。彼は足を早めて声をかけた。
「リサ、君も運動の時間かい」
「ジョン、良かった、一緒の時間で。『システム』の指示は完璧ね」
 美しく整った顔をほころばせながらリサはそう言い、それからジョンの顔をじっと見つめた。
「なんだか眼が腫れぼったいね。どうかしたの?」
「よく眠れなくて……」ジョンはリサと並んで歩きながら、言葉を濁らせた。「実は、その、例の指示がそろそろ出るだろ」
「ああ、そうね……」
 リサはうなずき、少し唇を噛んだ。ジョンの心配事はリサも理解していた。
 『システム』による結婚相手の指示が、まもなく出るはずだった。ジョンは両親や友人たちに、結婚相手はリサがいいと何度も話していた。リサも同じ気持ちだったが、誰に尋ねてみても、決定を下すのは『システム』だという回答以外は得られなかった。
「僕らは結婚できるのかな」ジョンは立ち止まってリサの手を取った。「それが心配で眠れないんだ」
 リサは少し硬い笑顔を返し、
「大丈夫よ、『システム』の指示に間違いはないわ。きっと結婚できる。私たちが愛し合ってることは『システム』だって理解してくれるはずよ」
 それから彼女はジョンの背に手を回し、二人の未来を守るかのように、きつく抱きしめた。

 数字とロジックだけで組み立てられた『システム』が、愛を理解しようはずもなかった。
 自室に届いた結婚の指示に、ジョンは完全に打ちのめされた。相手はリサではなく、会ったこともない知らない女だった。
「リサ、これは何かの間違いだ、こんなのあり得ない、どうにかしなくちゃ……」
 取り乱した声で電話をかけた彼に、
「ジョン、『システム』が決めたことよ……」
 リサの返事は冷静だった。しかし無理に押しつぶしたような声には、苦悩が混じっていた。
「諦めましょう、ジョン。私たちはきっと間違っていたの。そう思うしかないのよ」
「駄目だ、駄目だ! 何か方法があるはずだ、何か……」
 ジョンは頭をかきむしり、部屋中をぐるぐると歩き回った。
 『システム』への絶対服従という身に染み付いた考えに対して、初めて反発心が沸き起こった。
「何故自由に生きられないんだ……」
 そう独白した彼の脳裏に浮んできたのは、幼い頃に聞いた星の話だった。
――人々は星を見て、物語を作った。物語とは人の生き様を教えてくれる――
「そうか、星だ……」
「え?」
 唐突な彼のつぶやきに戸惑うリサの声に、ジョンは受話器を握りなおし、
「星だよ、リサ。星があれば物語を作れるんだ。レスリー先生から聞いた話だよ。物語は人の生き様なんだって。星があれば、どう生きるかを選べるってことだと思う……」
 そう言葉にしてみると、彼は自分の考えが正しいものだという気がしてきた。
「ジョン、何を言っているの? お願い、落ち着いて、ジョン」
 電話の向こうからリサの泣き声が聞こえる。ジョンは声を落ち着かせて、
「大丈夫だよ。星さえ取り戻すことができれば。きっと、そうすれば僕らは自由に生きられる」
 ジョンは目まぐるしく回り始めた思考を整理しながら、次にすべきことを考えた。
「星が消えたのはエネルギーが足りないせいだって、先生は言ってた。……なら、エネルギーを使えば星を取り戻せるかもしれない」
 シェルターのエネルギーが全て最下層の動力炉で生み出されていることは、彼も理解していた。
「動力炉に行くよ」ジョンは言った。「エネルギーを手に入れられるかどうか試してみる」
 即座に悲鳴に似たリサの声が返ってきた。
「駄目よ、危険だわ! あそこに行ったら無事では済まないって聞いたわ。生きて帰ってきても、少しずつ身体が溶けてしまうんだって……」
「君と生きるためならどんな危険があったっていい」ジョンはきっぱりとそう言って、それから声を和らげて続けた。「心配しないで待ってて。星が戻ったら、一緒に物語を作ろう」
 電話を切り、彼は部屋を飛び出した。

 動力炉へと続く通路は、ドームを挟んで居住区の反対側にあった。ジョンはドームを見上げて歩きながら、星とはどのような美しいものだろうかと想像を巡らせた。
 幾重にも針金が巻かれた鉄の扉をこじ開け、暗い通路に踏み入ると、足元に降り積もった埃が舞い上がった。
緩やかに下っていく通路の先は、完全な闇に沈んでいた。
 勇気を奮い起こすように歯を噛み締め、彼は闇の底を目指した。
 いくつかの通路を進み、何段もの階段を降りた。闇と静寂の中、幾度となく彼は自分がとてつもない間違いを犯しているのではないかという不安に襲われた。そのたびにリサのことを想い、星のことを想った。
 低く唸るような振動音が足下の暗闇から響いてくると、彼は目的地が近いことを知った。もはや引き返すことは考えまいと、最後の覚悟を決めた。
 果てしないほど続いた階段は大きな扉で終点だった。その先には分厚く冷たいコンクリートの壁に覆われた通路が幾重にも折れ曲がって続いていた。低い振動音はすぐそこまで迫っていた。
 最後の曲がり角を曲がると、ドームの広間に匹敵するほどの大きな空間が開けた。
 ジョンはゆっくりと歩を進めた。巨大なミキサーのような鉄の塊が中央にそびえ立ち、低い唸りを上げていた。
その下にはなみなみと水をたたえたプールが広がり、鉄塊の下半分は水の底に沈んでいて見えなかった。
 プールはぼんやりとした青く美しい光を放ち、鉄塊の輪郭を浮き上がらせていた。
「綺麗だ……」
 幻想的な光を浴びながら、この美しい光こそが星の源に違いない、とジョンは考えた。
 光の中心は水中深くに沈んでいて、手の届く距離ではなかった。周囲を見回すと、奥の壁際に“排水”と書かれたバルブが見えた。彼は迷うことなくバルブに手をかけると、いっぱいまで一気に回した。
 激しい水音とともに、青い光の渦を描きながら、プールの水位がぐんぐんと下がっていった。
 突然真っ赤なライトが点灯し、不気味なブザー音が鳴り響く。同時に機械的な女の声が頭上から降り注いだ。
「警告! 冷却水水位が下降中。温度・出力上昇中。第一リミッター動作不良です。ただちに退去して下さい」
 ジョンも何度か耳にしたことのある『システム』の声だった。
「もう指示には従わない!」ジョンは大きく手を広げて叫んだ。「僕は星を取り戻す! 自分の物語を作る!」
「第二、第三リミッター動作不良。出力臨界に達します。ただちに退去して下さい」
 『システム』の声が響く中、ジョンは微笑みながら頭上を振り仰ぎ、やがて激しい光が解き放たれるのを見た。

 突き上げる衝撃と耳をつんざく爆発音とがシェルターを襲った。
 電灯が一斉に消え、立っていられないほどの激しい揺れがひとしきり続き、その後には不気味なまでの静寂が訪れた。
 人々は慌てふためき『システム』の指示を渇望したが、どれだけ待とうとも『システム』からの指示はなかった。
 恐る恐る部屋から出てみると、人々はドームから先が完全に消滅していることに気がついた。灰色にひび割れていたドームの天井は崩れ落ち、動力炉への扉は土砂とコンクリートに埋もれていた。
 崩れ落ちた天井の向こうには青黒い空間が広がり、小さく瞬く無数の美しい光が散らばっていた。
 夜空を彩る本物の星だった。
 瓦礫の山を這い登り、数百年ぶりに地上にさ迷い出た人々は、黒々とした果てしない地平と、頭上を覆い尽くす数限りない星々を目の当たりにした。
「一体何が起こったんだ?」
 そんな人々の疑問に答えることができたのは唯一リサだけだった。
「ジョンよ。ジョンが星を取り戻したの……」
 リサは語った。自由を求めた彼の言葉を。星を取り戻すための彼の無謀な挑戦を。星空の下で人々はその話に熱心に耳を傾けた。

 そしていつしかジョンは、人類の新たな最初の物語となった。