木枯らしまでに

澄み渡った青空から山肌に向かって秋風が吹き降りると、赤や黄色の葉が舞い上がっては谷底へと落ちて行く。
 松五郎は風をやり過ごすと、顔を上げて行く手を見た。谷を渡る吊り橋は、半ばまで出来上がっていた。山深い里の秋は短いものの、木枯らしが吹く前に最後まで仕上がりそうだった。
 額の汗を拭って、松五郎は昨年の秋を思い出す。昨年の秋には、松五郎の幼い娘が真っ赤なモミジの葉を拾ってきたものだった。
 今年、松五郎の娘は居ない。
 眉間に皺を寄せ、松五郎は踏み板をくくり付ける仕事に意識を注いだ。

 松五郎は山深い里に生まれ育った。昨年までの松五郎の暮らしは、貧しいながらも幸せなものだった。
 妻のタミと一人娘の八重子に寄り添われ、昼は畑仕事に精を出し、夜は晩酌を楽しんで、
「俺は酒さえ飲めれば文句はねえ」
 という口癖通り、何の不満もない静かな生活だった。
 町ではガス灯が出現し、人々の生活が目まぐるしく変化していた時代である。近代化の波は松五郎の里へはなかなか届かなかった。里は時代から取り残されつつも、自給自足が成り立ち、貧しいなりに平穏に生きることのできる土地だった。里で手に入らない物は、数時間かけて山道を下り、町へ出れば買えた。たいていは贅沢品で、里での暮らしに必要な品ではなかった。
 里に住む者は皆ほぼ充足していたが、唯一足りなかったのは医者だった。医者は、町にしか居なかった。
 昨年の冬半ば、どこからともなく流行り病が広まって、年寄りや子供が熱を出しては次々と死んでいった。
「心配だわ、うちの八重子は大丈夫かねえ」
 不安な顔をするタミに、
「町に行けば医者も薬も良いのが揃うておるわ。心配なぞいるか」
 松五郎はうそぶいた。実際には医者にかかる金の余裕などなく、内心の不安を酒で紛らわせるばかりだった。
 いざ八重子が熱を出した時には、
「これは風邪だろう。医者になぞ診せたら笑われる。きっとそうだ。そうに違いない」
 そう言って町へ連れて行くことを拒んだ。酒をあおり、逃げるように酔い潰れた。
 八重子の容態が悪化すると、松五郎は泣きながら酒を飲んだ。弱っていく我が子を助ける金も力も、自分にはないと解かっていた。すまない、と心の中で叫びながら、松五郎は浴びるように飲んだ。
「お願いだから町へ、お医者様へ、必要なら家も畑も売ってしまって」
 タミが泣き叫んで頼んだ時には、もう手遅れだった。松五郎は完全に酔い潰れ、八重子が息を引き取る瞬間にも大きないびきをかいていた。

 以来、妻との会話は絶えた。
 松五郎は己を憎んだ。治療費もままならず、娘を見捨てた自分の不甲斐なさを憎んだ。押し黙ったままのタミと一緒に過ごすのが耐えられなかった。結局頼ったのは酒の力で、大徳利を抱えて里の稲荷に座り込み、泥酔しは近所の者に介抱される日々が続いた。
 春が来て雪が溶けても、松五郎の苦悩は消えなかった。
「俺はもう死にたい……」
 松五郎は涙と涎を撒き散らしながら誰彼構わずわめいた。見かねた里長の甚左衛門が稲荷まで足を運び、
「流行り病で子を亡くした親は大勢おるわ。お前は弔いもろくにせんで、酒に溺れて恥ずかしくないのか」
 一喝するのに、松五郎は酔いに任せて、
「何とでも言え。俺は屑だ。生きていても何の役にも立たん」
 甚左は半ば呆れながらも、松五郎を見捨てはしなかった。隣に腰をおろし、懇々と説いた。
「悔いもあろう、悲しみもあろう。だが、お前がそんな有様では、死んだ子もご先祖衆もお前を迎えいれてはくれんぞ。お前にはまだ家族が居ろうが。しゃんと立って歩かねばいかん」
「そうは言っても何をどうすればいいかわからん。俺はどうしたらいいのだ……」
 激昂と嗚咽とを交互に繰り返す松五郎に、
「松よ、橋をかけてはどうか」甚左は町へと続く道を指差した。「町までは四時間、若い男の足でも三時間はかかる。深沢の谷を大きく迂回する道は、渓谷沿いの険しい山道だ。谷を渡る橋があれば、道のりは二時間は縮まろう。里の者は皆お前に感謝するだろう」
 松五郎はようやく顔を上げて、新緑に染まり始めた山合いの道を見た。しかしその瞳はまだ空っぽだった。
「橋なんぞ架けて、それが何になるのだ」
「町に下りて医者にかかるのが間に合わなかった者が大勢おるのだ、松よ。わしの連れ合いもそうだった。もう少し早ければと、医者にそう言われた時の悔しさは忘れられぬ。深い谷をどれだけ憎んだことか」
 松五郎の目を正面から見据えて甚左は、
「橋が架かれば助かる命がある。これ以上にお前の娘の供養となるものがあろうか」
 それから松五郎の肩をぽんと叩くと、腰を上げた。
「大それた橋が必要なわけじゃなし。吊り橋があれば里の者が通るには事足りる。必要なことはわしに相談せい。里のためになることだ。お前が働くというのなら、食うに困らんくらいの金は出そう」
「娘の供養に……」
 松五郎は里長の言葉を口の中で小さく繰り返した。

 夏蝉が一斉に羽化し始める頃、松五郎はゆっくりとではあるが、橋を作り始めた。酒を口にするのはきっぱりと止めた。妻とは相変わらず一言も口をきかなかったが、里の者たちは働き始めた松五郎の姿に興味津々だった。
「あん時、橋がありゃあ、娘は医者に間に合ったんだ」
 松五郎は里の者にそう説明した。それが言い訳であることは誰もが知っていたが、誰も何も言わなかった。
 橋の架け方は甚左衛門に聞いた。まずは丈夫な綱を二本、谷に渡す必要があった。谷は綱を投げ渡せるほど狭くはなかったので、松五郎は綱を抱えて谷を下り、反対側を這い登ろうと考えた。
 しかし谷は険しかった。斜面を転がり落ち、危ういところで綱にすがり付いた。松五郎は死の恐怖を知った。
 知恵を絞り、谷の両側から綱を下ろし、谷底で双方を結び付けてから引き上げるやり方で、綱を渡すことが出来た。綱を手繰って少しずつ太いものを繋ぎ、吊り橋の基礎が整ったのは夏も盛りを過ぎた頃だった。
 松五郎は自信を取り戻しつつあった。タミとはまだ言葉を交わせなかったが、谷の両側をつなぐことで、自分と妻との溝も埋められるような気がしていた。
 それから松五郎は山に入って木を切り倒し、吊り橋の踏み板を作り始めた。この頃になると手伝おうという者も現れたが、松五郎は一人でやると言い張った。
 踏み板を綱に吊るしながら谷底を覗き見て、
「落ちたら死ぬんだろうな。けど、俺は仕舞いまでやり遂げてやるからな」
 独力でこの橋を渡し切ることが出来たら、きっと自分自身を許せるだろうと松五郎は思った。

 紅葉もあらかた散り果て、秋風に冬の匂いが混じる頃、松五郎はとうとう仕事をやり遂げた。
 橋の端に立って谷の向こうを眺めれば、太い綱に支えられた立派な吊り橋が、真っ直ぐに伸びていた。
 松五郎は冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。足元に落ち込む深い谷に向かって大声を上げた。
「つないでやったぞ。山と山を。この俺が、つないでやった」
 里長の甚左は吊り橋の上を往復し、その出来栄えに感心の声を上げた。
「よう仕上げたな、松よ。こうも見事な吊り橋を架けるとはな。お前には橋大工の才があるのではないか」
 松五郎の苦悩は、もう消え去っていた。流行り病への憎しみも、娘を救えなかった己の不甲斐なさも、心のどこか奥のほうへと引っ込んで、肌を冷やす風が無性に心地よかった。娘のためでもなく、里の者たちのためでもない。松五郎自身の生きる気力をつなぎとめるための橋だったのだと、そう思えた。
「松よ、長いこと飲んでおらんのだろう。今日はわしからの祝いだ。持って行くがいい」
 甚左は大きな徳利を松五郎に手渡し、早く帰って妻を喜ばせてやれと言った。
 満ち足りた気持ちに足取りも軽く、松五郎は家路を急いだ。
 新たな気持ちで新たな人生を踏み出す決意をタミに伝え、共にやり直そうと思っていた。

 家の引き戸を開けると、土間の炊き場に立つタミの背中が見えた。松五郎は興奮を抑えず、
「おい、とうとう橋が出来上がったぞ。途中で投げ出すだろうと陰口を叩く奴らもいたが、俺は最後までやってやった。もう町へ出るのに苦労しなくて済むぞ」
 一気にまくし立てた。背中を向けたまま返事もしないタミに、
「もう流行り病も怖くはない。町まではすぐに行けるからな。きっと八重子も喜んでいるに違いない」
 そう言うとタミの手の動きがぴたりと止まった。
「あの子が喜ぶですって?」
 松五郎は戸惑った。久しぶりに耳にした妻の声は、谷底の石のように硬く冷たかった。
「きっと喜んでくれる」松五郎は言った。「俺は生まれ変わったような気持ちだ。死ぬような思いもしたが、橋を架け終えてみて、もう一度やり直す気になったんだ。お前は、喜んでくれないのか」
 タミが振り向いた。表情は喜びどころか、怒りに満ちていた。
「私がなんで黙ってたのか、あんたは考えたことないの」
「なに?」
「やっと口をきいたと思ったら、喜べですって? 他に言うことはないの」
 憎悪のこもった口調だった。松五郎はタミの態度に顔をしかめ、
「何を言えというんだ」
「あんたのような屑には分からんわね」
 吐き捨てるように言われ、松五郎は頭に血がのぼった。
「屑とは何だ! お前がずっと陰気な顔してる間、俺が何をしてたか知らんのか! 俺は橋を架けたんだぞ!」
「橋が何だっていうの。あんな橋、火でもかけてやりたいわ」
 思わず拳を振り下ろしていた。ごつっと鈍い音がして、タミは土間に倒れこんだ。
「お前に、何がわかるか! 俺がどんな気持ちで、あの橋を架けたか」
 松五郎はタミの腰のあたりを蹴り付け、髪をつかんで顔を起こすと、もう一発拳を振るった。
 タミは悲鳴も上げず、毅然と顔をもたげた。呪い殺そうとでもするような形相だった。
「あんたが殺した」
「なんだと」
「あんたが殺したんだ。苦しんでたあの子を。あんたは酒を飲んで寝てた。医者も薬も何にもせずに、あんたが殺したんだ!」
 タミの目に涙があふれ、血のにじんだ頬を伝って流れていくのを、松五郎は呆然と見つめていた。
 橋を架け終えた時の満足感はいつしか消し飛んで、真っ暗な自己嫌悪が松五郎の胸に再び染み出してきた。
「あんたが殺した」
「よせ」
「あんたがあの子を殺したんだ」
「やめてくれ……」
 松五郎は壁際にへたり込んで頭を抱えた。タミは息を殺し、それから長く悲しげな吐息をもらした。
「橋が何だっていうの。八重子は、死んでしまったのに」
 タミは静かに立ち上がると松五郎の傍らを通り過ぎ、家の奥へと引っ込んだ。しばらく間があって、押し殺した泣き声が聞こえてきた。
 松五郎は甚左のよこした大徳利の栓をかじり取り、息が詰まるほどの勢いで酒を喰らった。
 酔いが全てをどこか遠いところに押しやるまで、ひたすらに酒を求めた。

 夜更け過ぎ、泥沼の中から起き上がる気分で目覚めると、タミの姿は家から消えていた。畑にも、納屋にも、タミは居なかった。里中を歩き回っても、どこにも見つからなかった。
 松五郎は胸騒ぎを覚えた。吊り橋に向かって夜道を駆けに駆けた。
 この冬初めての木枯らしが木々を揺さぶっていた。鋭く吹きつける風は山中にすすり泣きの声を響かせていた。
 吊り橋が見えた。そのたもとに履物が揃えて置かれていた。松五郎は倒れ伏すように履物に飛びつき、
「うおお……」
 咆哮した。木枯らしに運ばれて、その叫び声は闇の中に吸い込まれていった。
 絞り出せるだけの声を、松五郎は絞り出した。腹の底から湧き上がってくるものを全て、叫び声に乗せて吐き出した。そうして松五郎は妻が求めていた一言に、ようやく辿りついた。
「すまなかった……」
 松五郎の喉はすでに潰れ、その言葉は枯れ葉のような掠れ声にしかならなかった。

 それからの松五郎は、憑かれたように多くの橋を作った。
 黙々と架橋に取り組む松五郎は、声枯れ松の異名で知られる名工となった。
 川の両岸を結び、谷を渡し、町や村々の道をつないで人々の行き来を助けた一方で、自身は誰とも深いつながりを持たぬまま、松五郎は生涯を孤独に終えた。
 松五郎が初めて架けた吊り橋は、長いこと里の人々の行き来を支えたが、ある年の冬、突風に吹かれてバラバラになり、谷底に消えた。