休日のギタリスト

 ビンテージのレスポールを買った。
 久しぶりの休日にやることもなく、散歩先で通りがかったギターショップでの衝動買いだった。
 高校時代にギターにハマり、学業そこのけでバンド活動に邁進していたのも今は昔、三流大学に進学し、就職してからは自分がギターを弾けることすら忘れていたくらいだった。
 それも営業の仕事が異様に忙しかったせいだと言い訳できなくもない。実際、まともな休日がもらえたのは半年ぶりくらいだ。いつもの土日は接待目的のゴルフか飲み会。とてもじゃないが趣味の時間などありはしなかった。そんな生活を続けていたから、休日の過ごし方も思いつけない体質になってしまったのだ。
 だから今日の休みも何をすればいいのかわからず、仕方がないので当てもなく街をほっつき歩いていた。
 ぼーっとしていたせいで歩道の縁につまずいて転びそうになり、通りがかった若い女の二人組にクスクス笑われ、気まずさに顔を背けた先に、ギターショップのショーウインドウがたまたまあって、そのガラスの向こう側にレスポールが鎮座していたのである。
 瞬間、記憶が怒涛のように溢れ出し、高校時代に憧れてやまなかったこのギターに巡り合えたことが、蹴躓いたことも含めて、運命に違いないと思えてきた。
「いやあ、これはあるコレクターが所蔵してたものでねぇ」
 ギターショップの親父の目は、お前のような若造には売りたくないと訴えていた。そこを意味不明な営業トークを交えて押し切り、ほぼ言い値で購入した。給料の使い道はコンビニ弁当くらいしかなかったから、衝動買いする財力には困らなかった。
 花嫁を抱きかかえて自宅に入る花婿はこんな気分なのかもしれない。マンションの部屋に連れ帰ったレスポールを、ハードケースに入れたままうやうやしくベッドの上に横たえた。そしてシャワーを浴びる。身体の隅々まで念入りにピカピカにしてから、そっとベッドに戻る。これは新しいギターを迎える儀式だった。
「いいかい、開けるよ……」
 優しく、しかし躊躇いなくケースの留め金を外し、蓋を開く。
 思わずため息が出た。セクシーなワインレッドのボディ。サイドは柔らかく完璧な曲線を描き、落ち着いたブラウンのネックには気品を感じる。白く縁取られたピックガードはチャーミングなスカーフのようだった。
 すぐにも触れたい衝動を堪えつつ、まずはじっくり目で愛する。それからおもむろに触れる。ゆっくりとトップに指を這わせてみたが、なめらかで傷一つなかった。コレクター所蔵だったということは、あまり弾かれてはいないのかもしれない。
「可哀想にな、俺が弾いてやるからな」
 ギターは鳴って初めてギターになる。確かに見るだけでも美しいが、音を出さなければボディを構成する木材が熟成しない。弾き込んで初めてギターは本物になるのだ。
 弦を張り替え、チューニングする。レスポールは、わずかに弦を弾いただけでもボディを強く震わせた。
「久しぶりだから、うまくできるかどうか……」
 ギターを弾くのは何年ぶりだろう。果たしてレスポールが喜ぶほどの演奏が出来るだろうか。急に不安になってきたが、一つ大きな深呼吸をした後、おもむろに軽くストロークした。
 アンプにつないでいなくても、レスポールは甘美な音色を奏で、ボディを歓喜に震わせた。そのわななきが腹にダイレクトに伝わってくる。演奏が上手いか下手かは関係ない、今レスポールは鳴りたがっているのだと感じた。
 優しくアルペジオで弾き始めた。弦の一本一本を弾くたびに、レスポールは美しい音色を発した。その音色に導かれるように、腕が動き指が走り、また次の弦を弾く。何のことはない、弾き方は身体に染み付いていた。ぎこちなかったのは最初だけだった。
 夢中で弾きまくり、気がつけば夜中をとうに過ぎていた。明日は仕事に戻らねばならなかった。
「今度はアンプにつないでやるからな」
 隅々まで丁寧に拭いてやって、それから一番大切な儀式が残っていることに気がついた。まだ名前を付けてやっていない。
 少し考えて、ジェシカに決めた。
「おやすみ、ジェシカ」
 彼女をそっとケースに戻し、留め金をかけた。

 それからは休みのたびにジェシカと過ごした。営業の仕事は相変わらずひどくきつかったが、ジェシカと過ごせば心身ともに癒された。アンプや似合いのストラップも買ってやった。演奏の腕前は自然に上達し、かつては弾けなかったフレーズもこなせるようになっていた。
 全てはジェシカのおかげだった。高校時代に使っていた中古の安物ギターでは、とうてい出せなかったような素晴らしい音を奏でてくれる。だからこそ指も軽快に動くのだ。ジェシカは最高のパートナーだった。
 そしてジェシカと巡り合って半年程が過ぎたある日。
 接待ゴルフを終えてジェシカの元へ帰る途中、駅前でアコースティックギターを抱えた男の姿が目に留まった。
 見覚えのある顔だった。これから弾き語りを始めようとしている様子で、周囲には誰もいない。なんとなく近寄りにくくて、離れたところから眺めていると、男は静かに歌い始めた。
『古い橋の下から響く髑髏の声……』
 よく通るクリアな歌声。思い出した。こいつは高校時代のバンド仲間で、ボーカルをやってた神谷だ。
『幼い蛇に負わせた小さな傷がいつか君を殺すと……』
 おどろおどろしい歌詞ながら、相変わらず歌は上手かった。近づいていって、
「よう、神谷。久しぶり」
 声をかけたのに神谷はちらりとこっちを見ただけで、演奏を止めはしなかった。
『血に飢えた獣のはらわたを裂け……』
 仕方がないのでそのまま最後まで聴くことにした。
『赤い月が出た夜は密やかに闇の底へ帰る、アー、アー、アーァ、裸男爵』
 誰だよ裸男爵、と思わず突っ込みを入れたくなる。見事な歌声にそぐわない意味不明さだった。誰一人として神谷の演奏に足を止めようとしないのもわかる気がした。
 しばらく不思議な歌が続いた後、神谷はようやく歌い終え、
「久しぶりだな」
 淡々とした口調で言った。昔から感情を表に出さない奴だったが、内に秘めた音楽への情熱は誰よりも熱かった。
「いやびっくりしたよ。こんなところで弾き語りしてるとは。まだ音楽やってたんだな」
「お前はやってないのか?」神谷はわずかに首を傾げた。「結婚するなら相手はギターが良いなどと言ってたお前が、まさか止めたのか」
「やってるよ。休みには欠かさず弾いてる」
 そう答えると神谷は眉を上げて不可解そうな表情を見せた。
「なんで休みに弾くんだ」
 神谷がなんだか非難するような口調でそう言うので、皮肉の一つも言ってやろうと思い、
「毎日終電間際まで働いてて忙しいんだよ。お前みたいに暇じゃないんだ」
「暇なんてない」神谷は真面目な顔でそう答えた。「毎日夜勤がある。警備員をしてる」
「じゃあこのあと仕事なのか」
「いや」神谷はまた怪訝そうな顔をして、「仕事は今してる」
 よくわからないことを言い出した。少し考えてみて、どうやら弾き語りのことを仕事と言い張っているらしいことに思い至った。
「じゃあ警備員のほうは仕事じゃないのか? 何なんだ?」
「休みだ」
 神谷の返事は本気のようだった。そう言い切れる神谷のことを、馬鹿だと思うのと同時に、どこかうらやましくも感じていた。軽い嫉妬を隠すため、話題を変えてジェシカのことを語った。
「ビンテージのレスポール買ったんだよ。いいギターだ」
「そうか」
 神谷は意外にも興味がなさそうだった。自慢をしてやろうと思い、彼のギターに目を向けてみたが、
「あれ、お前このギター……」
 見覚えのあるギターだった。いや、そうだ。これは高校卒業の時に、形見と称して神谷に譲ったギターだ。
「キャサリンだ」
 神谷はギターのボディをそっと撫でた。キャサリンはあちこち傷つき、ペグには錆びが浮いていた。ヘッドの塗装は剥げてまだらになっており、神谷が今まで使い込んで来たことは明らかだった。
 高校時代にバイト代を貯め、ようやく買った中古ギターのキャサリン。初めて買ったギターだった。当時はギターの扱いも知らず、演奏テクニックもお粗末なものだった。ギターという楽器がどのように鳴り、どのように響くのか、それを一から教えてくれたのがキャサリンだった。
 あの頃は朝から晩まで弾いていた。授業をサボり、食事の時間も忘れて、ひたすらキャサリンを胸に抱いていた。他の何にも目が向くことのなかった真っ直ぐな時代に、ひどく切ない追慕の情を感じた。
「弾かせてもらえるか」
 そう尋ねると、神谷は黙ってキャサリンを差し出した。久しぶりに握ったネックは、なんだか一回り細くなった気がした。指を走らせると、キャサリンは懐かしそうにボディを震わせた。当時つたない指で演奏した曲を、なぞってみた。腹に伝わってくるキャサリンの躍動に、胸が詰まった。
 ギターは癒しなんかじゃなかった。あの頃何かわからないものへ立ち向かうための武器だった。キャサリンはそんな戦いの日々を覚えていた。ボディの傷の一つ一つがその勲章だった。神谷の手に渡ってからも、休みない長い戦いの日々を続けてきたのは明らかだった。キャサリンは身を軋ませながら、ひどくかすれる音色で鳴った。その音色は熟成とは程遠い。疲れ果ててボロボロになって、それでもなお立ち上がろうとする苦悶の声に似た、鬼気迫る音色だった。
 弾かない日こそが休日だという言葉は、当時自分が神谷に向かって吐いたものではなかったか。
「下手糞になったな」
 弾き終えてキャサリンを返した後、神谷がぽつりともらした感想は、それだけだった。