喜びの呪文

「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーンだよ、姉ちゃん!」
 小学校に入学したばかりの弟のタカシが、ミサキの部屋に飛び込んできた。
「今度は何」
 ミサキは机に向かったまま、手を休めることなく尋ねた。タカシの「ゼンダイミモン」はこのところ毎日発生
している。たいした事件ではないことは聞く前からわかっていた。
 タカシはぴょんぴょん飛び跳ねながら、
「夕ご飯、ハンバーグだって。ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 呪文のように繰り返し叫んだが、ミサキが関心を示さないことに気づくと、こそこそと部屋を出て行った。
 ミサキは鉛筆を投げ出し、中学受験の参考書を閉じると、大きなため息をついた。
「ハンバーグが前代未聞って、どんだけ貧乏家庭の話なんだか」
 確かにミサキの家は裕福とは言えなかった。父親は工場勤めの派遣社員、母親は近所のスーパーでパート、四
人家族の暮らしは質素だった。とは言えハンバーグが買えないほど貧しいわけではない。前代未聞どころか、ミ
サキの記憶では先週にも食べた覚えがある。
 タカシのゼンダイミモーンは前代未聞とは程遠かった。目下タカシはゼンダイミモーンがお気に入りで、事あ
るごとに「ゼンダイミモーン!」とはしゃぎ回るのだ。

 きっかけは二週間ほど前のタカシの誕生日だった。
「今日な、工場で表彰されたぞ。金一封付きだ」
 仕事から帰るなり、父親は自慢げに言った。そして大きな箱を食卓の上に置いて、
「せっかくだから、でかいケーキを買ってきた」
 箱を開けると甘い匂いが溢れた。四人では食べきれないほどの大きな、イチゴや白桃やキウイがどっさり乗っ
たケーキだった。チョコレートプレートには“おたんじょうびおめでとう!タカシくん”と書かれていて、タカ
シは部屋中を転げまわって喜んだ。
 食卓を囲みながら父親が話したのは、
「工場の安全標語コンテストで最優秀賞に選ばれたんだよ。いつもは社員が受賞するんだけど、派遣で初めての
受賞だったんだ。この快挙は前代未聞だってさ」
 タカシはケーキを夢中で頬張りながら、
「ゼンダイミモーン!」
 と叫んでクネクネと身体を動かした。
 ミサキは弟の怪しいダンスに思わず笑ってしまった。するとタカシはますます激しく身体をくねらせて、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 何度となく繰り返し叫んだのだった。

 そうしてタカシはゼンダイミモンの呪文を習得した。
「今日ゼンダイミモーンだったんだよ!」
 夕食の時間に、学校での出来事を語る時にはそう切り出すのがお定まりになった。
「ゼンダイミモーンだよ、姉ちゃん!」
 ミサキの部屋に飛び込んでくる時の最初の台詞はいつも同じになった。
 最初の何回かは、ミサキも相手をしてやっていたが、
「学校の桜の木にね、イモムシがいっぱいいた」
「体育の時、先生が跳び箱八段跳んだんだよ」
「掃除の時間に、消しゴム拾ったんだ」
 一年生のタカシにとっては、それなりに驚きの出来事なのかもしれない。しかしミサキにとっては実にどうで
もいい話ばかりだった。相手にするだけ時間の無駄だと、ミサキは思うようになった。
 ミサキにはもっと大きな悩みがあった。六年に進級して三週間が過ぎ、年度始めの行事も落ち着いて、本格的
に授業が始まっている。ミサキは私立中学への進学を望んでいた。そのために毎日勉強に打ち込んでいるものの、
「公立中学でも勉強はできるじゃないか。公立のほうが気楽だぞ」
 父親はミサキの希望を理解しなかった。
「ミサキ、あなたがどうしても行きたいなら、何とか頑張ってみるけど……」
 母親は学費の捻出に頭を悩ませるだけだった。
 父親も母親も、ミサキに言わせれば人生の負け組だった。毎日油だらけになって帰ってくる父親は、酔っ払う
と工場の文句ばかり言っている。文句があるなら会社に言えばいいのにと、ミサキはいつも思う。母親はいつで
も何でも人の言うことに従おうとする。ミサキは母親の意見らしい意見を聞いたことがない。もしかしたら「い
いえ」という言葉を知らないのかもしれないと、ミサキは時々考える。
 両親と同じような人生を歩みたくはないと思う一方、そんな人生から家族まとめて抜け出したいという気持ち
もあった。ミサキは家族を嫌っているわけではなかった。油まみれの父親や、細い腕で買い物袋をいっぱい抱え
る母親の苦労を目にすれば、自分が将来良い仕事に就いて、楽な暮らしをさせてあげたいという気にもなる。
 そのためには中学受験に成功して良い学校に入ることだと、ミサキの思いはやはり受験に行き着くのだった。

 ミサキが私立中学を志すきっかけとなったのは、何と言っても隣家のユウ子の存在だった。
 ユウ子はミサキより二つ年上の、現在中学二年生。都内の有名私立中学に通っている。東京西部の田舎じみた
この町からは、今まで合格した者がない難関校だった。前代未聞とはユウ子のような人にこそ相応しいと、ミサ
キは密かに思っている。
 幼馴染として姉妹のように育ったユウ子とミサキは、今でも親密に話をする間柄だった。
「ミッちゃん、人生はね、子供のうちからどれだけ努力するかで決まるんだよ」
 ユウ子はよくそんな話をした。
「音楽とか絵とかさ、すごい人って大体子供の頃からやってるでしょ。勉強だってそうだよ。公立の中学に進む
より、私立のほうが絶対良いよ。私立の中学ってね、公立でやる内容は二年までで終わらせちゃって、三年では
高校の勉強をするんだ。公立の勉強じゃ追いつけないよ」
 いつでも断言口調で整然と語るユウ子は、ミサキにとって憧れであり、目標であった。
「受験するなら塾に行ったほうが良いよ」
 ユウ子のアドバイスを受けて、ある日ミサキは両親に塾に行きたいと訴えた。
 半ばミサキが予想していた通り、両親は良い顔をしなかった。
「受験は高校で頑張ればいいじゃないか。俺なんか小学校の頃には勉強なんかしなかったぞ。それでもちゃんと
食えてるだろ」
 そう言う父親に向かって、ミサキは口を尖らせて反論した。
「高校じゃ遅いよ。私は良い勉強が出来る中学に行きたい。公立じゃ追いつけなくなる」
 両親は顔を見合わせて、
「ミサキ、ユウ子ちゃんの真似をしなくてもいいのよ。ユウ子ちゃんはお父さんもお母さんも先生だし、昔から
勉強が出来る子だったし」
 諭すように言う母親の言葉に、ミサキは強い反発を覚えた。真面目に将来を考えているというのに、ただユウ
子の真似をしているだけだと思われてることに腹が立った。頭の中が真っ白になって、
「私はお父さんやお母さんみたいになりたくないの!」
 思わず叫んでいた。
 父親も母親も、言葉を失ってミサキの顔を見つめていた。言ってはいけない一言だったと、ミサキはすぐに我
に返ったが、凍りついた空気を溶かす言葉を思いつけなかった。
「ミサキ……」
 泣くような、責めるような、複雑な母親の声色に耐えかねて、ミサキは自室へと逃げ帰った。

 ミサキが机に突っ伏して、こみ上げて来る嗚咽を堪えていると、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン!」
 弟のタカシが踊るように部屋に入ってきた。
「ゼンダイミモーン! ねえ、ゼンダイミモンだよ、姉ちゃん」
 タカシの無邪気で呑気な呼びかけが疎ましく、ミサキは感情が爆発するのを止められなかった。
「うるさい!」
 椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、タカシに詰め寄る。怯えた表情を見せるタカシをにらみつけて、
「あんたね、下らないことばっかり言いに来ないでよ! 前代未聞の意味もわかんないくせに!」
 タカシは目をパチパチさせながら、
「わかるもん。ゼンダイミモン、知ってるよ」
「じゃあ言ってみなよ! どんな意味か」
 これが八つ当たりだということは、ミサキにもわかっていた。八つ当たりでも何でも、激情をぶつける先が今
は欲しかった。
 タカシの目にみるみるうちに涙が溜まっていく。
「知ってるもん。言えないけど、知ってるもん……」
「知ってれば言えるでしょ。知らないから言えないんだ」
 切りつけるような勢いでミサキがたたみかけると、タカシは本格的に泣き出した。そしてタカシは部屋から逃
げていった。ミサキは怒りが冷めるどころか、弟を泣かせてしまった自己嫌悪まで背負い込んで、ベッドに潜り
込んで自分も泣いた。

 翌朝、父親はミサキに言った。
「母さんともよく話し合ってみた。お前が希望するなら応援する」
 中学受験を認め、毎日ではないにしても、塾へも行かせてやると約束してくれた。
「頑張り屋のミサキなら、きっと合格できるよ」
 そう言って微笑む母親の目は赤かった。謝るべきだと思いながらも、ミサキは何も言えなかった。
 父親の帰ってくる時間は、随分と遅くなった。母親の作る食事は、前にも増して質素になった。タカシはミサ
キが勉強している時には部屋にやってこなくなった。
 ところが、肝心のミサキは勉強が手につかなくなっていた。
 参考書を広げ、鉛筆を握ると、なじるミサキの前で言葉を失った両親の姿が蘇って来る。
 八つ当たりしてしまった時の、口を引き結んで目に涙をいっぱい溜めたタカシの顔が浮んでくる。
 父親は酒を飲んでも、会社の文句を言わなくなった。黙って座り込んでちびちびと酒を飲み、そのまま眠って
しまうことが増えた。母親は時々家計簿をつけながら、ため息をつくようになった。夕食にハンバーグが出てこ
ないせいか、タカシはお気に入りの「ゼンダイミモーン」を唱える機会が随分と減った。
 中学受験のせいで家族を苦しめてる、そう思えてならなかった。
 不安な気持ちを口にすると、
「気にするな、親が子供のために働くのは当たり前だろうが」
 父親はそう言ってミサキの頭を撫でてくれた。母親も笑いながら、
「こういう時こそ、やり繰りの腕の見せ所だからね。大丈夫だから頑張りなさい」
 細い腕でガッツポーズをして、ミサキを応援してくれた。
 ミサキは迷いを振り切れないまま机に向かい、一生懸命鉛筆を走らせた。問題を解き、答え合わせをしてみる
と、ほとんどが不正解だった。家族の応援に応えようと頑張るほど、焦りや不安が頭を鈍らせ、ミサキは泥沼に
はまり込んでいった。

 一学期の終わりの日が来た。
 通信簿はミサキをどん底の気分にさせた。
 良い評価はわずかで、ほとんどが普通、とても私立中学を目指せるような成績ではなかった。
「どうしよう、こんな成績じゃ、見せられない……」
 家までの道のりを、ミサキはうつむきながら、いつもの倍ほどの時間をかけて帰った。
 ただいまも言わずに玄関を静かに開けた。恐る恐る台所を覗き込んでみたが、母親の姿はなかった。パートが
長引いているのかもしれなかった。
「姉ちゃんおかえり」
 タカシが出てきて、
「今日ね、通信簿もらって……」
「またあとでね」
 ミサキは逃げるように自室へ飛び込んだ。
 机に通信簿を広げ、最悪の成績ともう一度対面する。何度見直しても、結果は変わらなかった。今まで優秀な
成績だったミサキにとっては、前代未聞の悪評価だった。
 夜遅くに帰ってくる父親の疲れた顔が浮ぶ。家計簿とにらめっこする母親のことを思う。こんな成績を見せた
ら、がっかりするに違いない。それとも怒るか、悲しむか。前にミサキがなじってしまったときの、言葉を失っ
た両親の姿が思い出された。あんな顔はもう見たくはないと思った。
 ミサキは机の引き出しから修正液を取り出した。
 成績を書き直して、両親に見せた後、また元に戻せば済むことだと、自分に言い聞かせた。キャップを外し、
白い液体のついた小さなハケを、通信簿の上にかざした時、
「姉ちゃん、勉強?」
 タカシが部屋に入ってきた。ミサキは慌ててキャップを戻し、
「ううん。何?」
 笑顔を取り繕って振り向くと、タカシは持っていた画用紙を広げて見せて、
「ゼンダイミモーン!」
 画用紙には黄色くて丸々と太ったネズミのようなタヌキのような動物が描かれていた。
「ゼンダイミモンって、まさかあんた、ポケモンだかナンジャラモンだかそういうのだと思ってたの?」
「違うよ、これこれ」
 タカシが指差すところを見ると、隅っこに“よくできました”の桜マークのスタンプが押されていた。
「それが前代未聞?」
「そう、ゼンダイミモーン」
 くねくねと怪しい踊りを踊ってみせるタカシに、ミサキはふと、
「前にも聞いたけど、前代未聞の意味わかってんの?」
 そう尋ねるとタカシは胸を張って、
「わかってるよ。嬉しいときに言うの」
 どうやらあれからタカシなりに前代未聞の意味を考えていたらしかった。
「美味しいもの食べた時とか、すごいもの見た時とか、あと、一番になった時」
 タカシにとってゼンダイミモンとは、喜びの表現だったんだと、ミサキは初めて理解した。
「じゃあ、ハンバーグ食べた時とか?」
「そう、ゼンダイミモーン!」
「桜のスタンプもらった時とか?」
「ゼンダイミモーン!」
 ミサキはタカシの不思議な動きにクスクス笑った。いつの間にか前代未聞の本当の意味が失われて、タカシの
言う通りの喜びの呪文みたいに思えてきた。
「他にもいろいろ、姉ちゃんも嬉しい時に言うんだよ」
 タカシがそう言うので、ミサキは思いついてこう尋ねた。
「それじゃあ、もし私が受験に合格したら?」
 タカシは激しく身体をくねらせながら、
「ゼンダイミモーン! ゼンダイミモーン! って言いながら皆で踊る」
「それは確かに、前代未聞の光景だね」
 ミサキは父親と母親とタカシが並んでくねくねと踊っているところを想像して、お腹が痛くなるほど笑った。
それは妙にリアルな想像だった。父親も母親も、嬉しそうにニコニコと笑いながら、タカシに合わせて踊ってい
た。そんな光景を見てみたいと、ミサキは心の底から思った。
 それからミサキは修正液を手に取ると、キャップをきつく閉めて机の引き出しに放り込んだ。

 夏が過ぎ、秋が過ぎた。
 年明け早々にミサキは希望の中学を受験して、やがて合否を知らせる封書が家に届いた。
「ミサキ、あなたが開けなさい」
 母親は家族が揃うまで開封せずに待っていた。
 ミサキは深呼吸しながら封を破ると、中身をそっと引っ張り出した。
「どう? 姉ちゃん?」
 そこに書かれた文字に目を走らせたミサキは、家族に向かって合格通知を広げ、
「ゼンダイミモーン!」
 と大きな声を上げた。