存在の証明

 玲子の日常は、夫との議論に始り議論に終わる。
 仲が悪いというわけではない。結婚して三十年余り、子供はいない。議論の毎日と言えども、玲子は離婚を考えたことは一度もなかった。
 夫の健太は大学研究者で、玲子はその助手の立場にある。研究内容について持論が正反対であるために、結論の出ない議論を延々と続けてきたのである。
 研究対象は超常現象、特に心霊科学であった。
 健太は懐疑派、玲子は肯定派だった。肯定派というよりも、玲子は霊が存在することを確信していた。俗に言う霊感というものが備わっているせいか、玲子には何かが見えたり、誰かの言葉が聞こえることがあった。

 二人が出会ったのは、健太の心霊実験がきっかけであった。玲子は被験者として実験に参加した。
 若き日の健太はすらりとした長身に白衣を着込み、小さな方形のメガネの奥できらめく瞳には知性が満ち溢れていた。一言で言えば秀才で美男子。玲子は一目で健太に魅力を感じた。
「僕は安易に肯定する気はない」初めて会った時、健太はいきなりそう言った。「だからと言って否定して片付けて終わりにする気もない。非存在の証明は困難だ。この研究には終わりはないかも知れない。でも、いつか肯定に足る証拠が見つかる可能性がある限り、逃げるわけにはいかない」
 そんな健太の研究者としての姿勢にも、玲子は感心した。
「あたしの周りに集まってくる人たちは、盲信するか、頭ごなしに否定するかのどちらかだったわ。マルかバツかみたいな両極端じゃなくて、あなたのように客観的に真実を見極めようとする人は初めて」
「勘違いはしないでくれよ。僕は現時点では否定的だ。心霊の存在を肯定する証拠は何もないからね」
 そう言って白い歯を見せて微笑む健太に、自分の霊能力を信じて欲しいと、玲子は強く願った。
「あたしが証拠を見せるわ。あなたが霊を肯定できるように」
 玲子はそう約束した。

 結局その時の実験では霊の存在を示すことはできなかった。玲子は健太に信じてもらいたい一心で、その後も度々様々な方法で実験を提案したが、
「不可思議な現象、ということは認められても、それがイコール霊の存在とは言いがたいな」
 実験結果のレポートに、健太はいつも大きなバツ印を書くのだった。玲子は自分自身が否定された気がしてつらかった。実験結果以外の点では健太はすこぶる優しく紳士的で、そのギャップがまた玲子を躍起にさせた。
 玲子は健太の実験室に通いつめた。健太から科学的な手法についても学び、どうすれば霊の存在を確かめることができるのか、議論を繰り返した。
「君の熱意は大いに認めるところなんだけどもね」
 ある日の交霊実験でも、健太はレポートにバツ印を書き込んだ。玲子はうまく霊と交信できなかった自分が悔しく、健太に認めてもらえないことが寂しくて、涙をこぼしてしまった。すると健太は玲子の頬に手を当てて、
「僕はまだ結論は出してないよ。君が自分のことを信じているなら、あきらめないことだ。僕はね、もっともっと君のことを知りたいんだ。めげずに今後も力を貸してくれ」
 玲子は拾われた子犬のように健太に擦り寄って、絶対あきらめないと誓った。
 それから二人は一層親密になっていった。一緒に朝のコーヒーを飲みながら、霊について語り合った。オープンカフェでランチを食べながら、霊能力の仕組みについて検討した。議論することが多すぎて、夕食を共にすることが増えていった。
 休日も二人は一緒だった。朝の公園を散歩しながら議論し、遊園地のジェットコースターに乗りながら議論し、東京タワーのイルミネーションを眺めながら議論し、ホテルのベッドの上でも議論を重ねた。
「君の言うことを信じられないわけじゃないんだ」健太は玲子を優しく愛撫しながら言った。「個人的な感情で科学者の信念を曲げることはできない。君を愛してることと、霊が存在することは無関係だ」
「霊の存在がなければ、あたしたち出会ってなかったんじゃないの?」
「仮定は意味がない。必要なのは結果だ。僕らはもっと協力して研究に励まないと」
 そうして二人は結婚した。

 以来三十数年。玲子は約束を果たすために尽力してきた。
 毎日議論を続けても、健太との結婚を後悔することはなかった。健太は六十を過ぎていたが、半分白くなった髪で渋みを増し、大学の学生にも人気があるほどいい男のままだった。
 様々な実験を繰り返すうち、玲子の霊能力が顕著に現れるのは、心霊写真らしいということがわかっていた。
「この写真、強い念を感じるわ。ほらここ、顔が映ってる」
 玲子は写真を健太に渡す。健太は示された箇所に目を凝らし、
シミュラクラ現象だな。ここと、ここと、ここだろ」暗がりに映っている白い点が、逆三角の形に並んでいるのを指し示し、「何度も言っていることだが、人間はこの配置を見ると顔を想起するものだ。目が二つ、その下に鼻だか口だかが一つ。この逆三角の並びは、自然界のどこにだって転がってる」
「これは違うわ。ただの模様と霊とを間違えたりしない。模様には念を感じないもの」
 玲子はそう反論するのだが、
「不十分だ。君が念を感じたかどうかだけでは。もっと確固たる証拠がなければ証明にはならない」
 健太は相変わらず大きなバツ印をつけて、写真を放り出すのだった。

 ある日、玲子は朝目覚めた途端に妙な寒気を感じた。魂がどこか遠いところに運ばれてしまうような感覚。
「おはよう、なんだか顔色が悪いな」
 朝食の席で健太にそう言われ、玲子は無理に微笑んでみせて、
「何か嫌な感じがする。でも大丈夫」
 そう言ったものの、気分は最悪だった。守護霊が何か警告を発しているように思えて、玲子は一日休養を取ることにした。
 夜になると熱が出て、玲子はまともに眠ることさえできずに苦しんだ。健太は夜通し付き添ってくれた。
 翌日になっても熱は引かず、魂が抜け出るような感じはますます強くなっていった。
「あたし、もうすぐ死ぬんだと思う」
「何を言ってるんだ玲子。今日は病院に連れてってやる。すぐ良くなる」
 健太は玲子の手を握り、強い口調でそう言った。いつもと同じ健太の断定的なしゃべり方が、玲子には頼もしく嬉しかった。
「死んだら、あなたのところに戻って来るから」玲子は健太の手を握り返した。「あなたが霊の存在を証明できるように、戻ってきて写真に写るわ」
「今はそんなことはいい」
「よくないよ。約束して。あたしを写真に写して」
 健太はひどく戸惑った顔をしていた。長い間一緒にいて、玲子はそんな健太の表情を初めて見た気がした。
「あたしね、子供の頃からいろんなものが見えたり、聞こえたりしたでしょ。そんな力、いらないと思ったこともあったけど、あなたに会ってからは感謝してる。あたしの力は、きっとあなたが霊の存在を証明するために、与えられたものなんだって思えたから」
「それなら病気を治すことだ。病気を治して、また二人で実験をすればいい」
 玲子の回復を願う健太の気持ちが伝わってきて、玲子は満たされた気持ちになる。
「そうね。でももしあたしが死んだら、今度こそ証明できる。約束したもんね、必ず証拠を見せるって」
 その時初めて健太はレポートに大きなマルを書いてくれるに違いない。玲子は目を閉じ、その光景を思い浮かべて微笑んだ。
 魂が飛んでいく感じがまた襲ってきた。健太の手を握り締めていた力が抜けていく。
「おい、玲子、いかん救急車だ」
 健太が取り乱した様子で寝室を飛び出していく。
 そんなに慌てなくても大丈夫よ、という玲子の思いは言葉にはならなかった。そのまま急激に意識が薄れていき、玲子には何もわからなくなった。

 次に気がついた時、玲子は葬儀場のホールにいた。辺りは暗く、壁の時計を見ると二時を回っていた。
「お目覚めかね」
 声をかけられて振り向くと、スーツ姿の老人が立っていた。
「あたし、死んだのね」
「物分りが早いな。大抵は納得できなくて説明するのが大変なんだが」
 老人は満足そうにうなずいて、
「さあ、行こうか。皆が集まってるところがある。いわゆる“あの世”ってやつだ」
 手を差し伸べてきたが、玲子は一歩下がって、
「待って下さい。あたしにはやらなくちゃいけないことが。死んでからどれくらい経ったのかしら」
「目覚めるのがちと遅かったようだから、四、五日経ってるんじゃないかね。あんたの葬式は終わっとるだろう。一体何をしようというのかね」
「夫に約束してるんです。死んだら写真に写って、霊の存在を証明するって」
 老人は目をぱちくりさせて、それから大声で笑った。
「残念だが、それは無理だなあ。わしらは写真に写ったりせんよ。わしらから生きてる者の姿は見えても、生きてる者がわしらを見ることはできん」
「え。でも、心霊写真はたくさんあるし、あたし何度も見たり、声を聞いたりしてきました」
 老人はゆっくり頭を振って、
「そりゃ勘違いだなあ。幻覚とか幻聴とかな。心霊写真なんてのは、シミュラクラ現象と言ってな……」
「知ってます。じゃあ、守護霊はどうなんですか。あたしは死ぬ前に守護霊から警告を受けました」
「おらん。警告ってのは気分が悪いとかそんなのじゃないのかね。それは体調が悪けりゃ当然だろうに」
 玲子は唇をかんだ。今まで散々感じてきた気配を、全て気のせいだと済ますことなどできなかった。
「先祖の祟りや自縛霊や憑依現象は?」
 思いつくまま挙げてみたが、
「先祖が何で子孫を恨むんかね。子供は可愛いもんだ。自縛霊なんてのは単に道路や環境の問題で事故が多発するだけのことだろう。憑依なんぞできるもんなら、わしは今頃若い女にとり憑いておるわ」
 全て老人に否定されてしまった。幽霊に心霊現象を否定されるとは皮肉な状況だった。
「見えないなんて嘘よ、あたし信じない」
 玲子は後ずさり、それからホールの出口に向かって駆け出した。
「見えんもんは見えんって。まあいい、納得したらまたおいで。わしらはどうせ暇だからな」
 背後から老人の声が聞こえてくるのを振り切って、玲子は自宅を目指した。

 健太は起きていた。起きてはいたが、ひどい状況だった。
 いつもきちんと整えていた髪は乱れ、シャツもズボンも着崩れて、泣き腫らしたのか真っ赤な目をしていた。
「玲子……」健太は玲子の遺影に向かって語りかけていた。「君を失って初めて、君の大切さが解かったよ……」
 常に冷静で落ち着きのあった健太が、無様なまでに悲嘆している姿に玲子は胸を詰まらせたが、気を取り直して健太の前に立ち、手をヒラヒラさせてみたものの、まったく見えていない様子だった。
 霊感のない健太には直接見えないのも無理はないと思い、玲子は健太の耳元に手をかざした。
「あなたー! ただいまー!」
 大声で叫んでみたが何の反応も示さない。少なくとも健太には玲子の姿も声も認識不能なのは間違いなかった。
「となると残るは……」
 玲子は机の上のカメラに目を向けた。健太が約束を覚えているなら、きっと玲子を写そうと試みてくれるはずだった。健太はまだ遺影に向かってぶつぶつつぶやいていた。
「うう、玲子……。君の作った肉じゃが、美味しかったよ……」
「そんなことはいいからカメラ」
「玲子、ごめんな。ずっと言えなかったけど、実は前に一度だけ、浮気したことが……」
「う。許しがたいけど、カメラだってば!」
 なかなかカメラを手に取ろうとしない健太の周りで、玲子はひたすら待ち続けた。
 健太が思い出したように顔を上げたのは、夜も白み始める頃だった。立ち上がってカメラを手に取る健太に、玲子は手を振ってアピールしたが、健太はカメラをあさっての方向に構え、
「僕は信じるぞ玲子。君はきっと写ってくれるって。今なら僕にも君の念を感じられるかもしれない」
 玲子は慌ててファインダーの前に飛び込んだ。健太はシャッターを切った。すぐに健太はプリンターを動かし、撮った写真を大きく引き伸ばして出力した。
 食い入るように写真を見つめる健太の横から、玲子も身を乗り出してのぞき込む。
 中央にカーテンの閉まった窓が写り、一見何の変哲もない部屋の写真だったが、
「ちょびっと写ってる! やったわ!」
 写真の隅を指差して玲子は歓喜の叫びを上げた。写真の縁ギリギリのところに、ファインダーの前に飛び込もうとする玲子の、頭の先が黒く見えていた。
 健太は血走った目で写真を見つめ、それからはらはらと涙を流し、微笑んだ。
「玲子、君なんだね? そこにいるのを感じるよ。約束通り、写ってくれたんだね」
「そうよ、あなた。あなたがずっと捜し求めていた、霊が存在する証拠よ!」
 そして健太は嬉しそうに、カーテンのシワの逆三角形の模様に大きなマル印を書いた。