白いサソリ(1)

 村瀬が最初にサソリを見たのは、桜の花が雨に散らされる夜のことだった。
 サソリは街灯の光に照らされ、白く浮き上がっていた。
 雨で濡れていたこともあったのだろう、普段だったらアスファルトに溶け込んでいて見えなかったかもしれない。村瀬がそれに気づいたのは偶然に過ぎなかった。

 その日。
 新年度を迎えたばかりで、入社二年目の村瀬は新人の研修に忙しく、いつもよりもずいぶんと遅い時間に会社を出た。
 自宅近くの小さな駅で電車を降りたとき、冬に逆戻りしたような冷たい風が雨粒交じりに吹き付けてきた。
 郊外の住宅地に申し訳なさそうに作られた駅だから、雨よけの屋根がある程度できちんとした壁があるわけでもない。
 会社を出たときよりも風雨は強くなっているようだった。
 腕時計に目をやると、スーツの袖口に雨にぬれた桜の花びらが一枚、張り付いていた。
 まだバスに間に合う時間だった。とは言ってもしばらく待つことにはなるだろう。
 村瀬は急激に体温が下がるのを感じて、思わず首を縮めた。

 ホームの上を横切る自由通路を抜けて南口へ出た。
 自由通路の階段を下りたところは駐輪場になっており、くたびれた表情の中年サラリーマンが一人、傘と自転車のハンドルを同時に操ろうとがんばっていたが、どうにも要領が悪いために肩先や裾は黒々と濡れてしまっている。
 村瀬も普段は自転車を使っているが、こんな日に乗ってくるほど軽率ではない。
 先のことを考えずに行動するのは愚かなことだと、村瀬は思う。
 朝、家を出る前に天気予報をちらりと見れば済むことなのに、どうして自転車などで来てしまうのだろうかと、村瀬は中年サラリーマンの後姿を見送った。
 ふらつきながら雨の中に消えていく様子からすると、スーツはぐしょ濡れになってしまうことだろう。
 村瀬は新年度にあわせて新しいスーツをおろしたばかりだったから、出来ることなら一切雨には濡れたくなかったが、バス停は駅からワンブロック先の通りにあり、雨の中を歩かざるを得ない。
 軽くため息をつき、カバンを脇に抱えて傘を開こうとした。
「あ・・・・・・」
 突然の風で、傘が強く引っ張られた。
 手の中から柄が滑り抜けて、傘は村瀬の2、3歩先に転がった。村瀬はちょうど屋根の切れ際に立っていたから、傘が落ちたのは雨にさらされるアスファルトの上である。
 軽く舌打ちして、村瀬は傘に手を伸ばした。雨粒が勝ち誇ったように新品スーツの肩や背中を叩く。
 傘の柄をつかんで持ち上げた村瀬の目に、何か白く光るものが映った。

 アスファルトの上に、白いサソリがいた。
 雨に濡れて黒くなったアスファルトに浮かび上がるように、街灯の光がサソリを照らし出していた。
 一瞬ぎくっとしたが、よくよく見れば単に白いペンキのようなもので描かれた絵だった。
 尻尾を振り立て、ボクサーのようにハサミを構えているその姿は、何かのロゴマークのようにも見える。
 真新しいものではなかった。毎日多くの人が踏みつけて通るせいなのか、ところどころペンキがかすれていたり、汚れていたりする。
 雨でなければ、昼間だったら、アスファルトに溶け込んで見えるに違いない。
 毎日通る場所なのに、村瀬は初めてこのサソリに気づいたのだった。