白いサソリ(2)
村瀬は思わず地面にかがみこみ、白いサソリのマークを見つめずにはおれなかった。傘がぶれてスーツが濡れることも忘れた。
サソリは左向きで、手のひらくらいのサイズだ。本物よりもやや大きめのハサミを持ち、振り上げた尻尾の毒針はまがまがしい曲線で描かれている。尻尾の節は7つ。左のハサミと毒針には、小さな星型が付いている。
間違いなかった。このサソリのマークはかつて村瀬がデザインしたものだ。否応なしに過去の記憶が蘇ってくる。
メタルスコーピオンズ。
村瀬が5年前まで所属していたチームの名前だった。メンバーは9人。サソリの尻尾の節の数に、ハサミと毒針の2つの星を加えた数と同じ。黒いバイクの車体に銀のスプレーでサソリのマークを塗布し、9人で夜の町を爆音とともに走り回った。挑戦してくる連中には全て噛み付いた。パトカーを取り囲んでスクラップ同然まで破壊したこともある。他の暴走族との抗争は日常茶飯事で、走りでも喧嘩でも負けたことのないチームだった。
しかし全ては過去のことである。
村瀬がかつては凶悪な暴走族のリーダーだったことを知る者は、身の回りにはいない。ある事件をきっかけにして、メタルスコーピオンズは消滅したのだ。
長らく記憶の底に封じ込めてきた事件を思い出し、村瀬は喉の奥で小さくうめいた。
一体何故メタルスコーピオンズのシンボルがこんなところに描かれているのか。
しかも目の前のマークは、サイズも細かな曲線も、明らかに当時の型紙をそのまま使って描かれたもののように見える。
しかしそんなはずはない。当時のメンバーの仕業であるはずがなかった。
あの頃、自分たちの勢力範囲を誇示するために、いたるところにこのサソリのマークを描いたから、それを元にメンバー以外の人間が型紙を作ることは可能だろう。
村瀬は立ち上がった。軽い眩暈を覚えた。
雨脚が強くなって、風が桜の木を揺する。雨と風のノイズが暴力的に村瀬を包み込んだ。まるで過去から亡霊たちが現れて、自分を呼んでいるような気さえした。
思い浮かぶのは、木崎のことである。木崎とはまるで双子の兄弟のように気持ちが通じていた。実際、義兄弟の契りの真似事までしたことがある。
そもそもメタルスコーピオンズは木崎と二人で作ったチームだ。どこかで聞いたようなセリフだが、村瀬と木崎は地元では負け知らずだった。村瀬の武器は幼い頃から習っていたボクシングで、木崎はナイフ捌きが巧みだった。サソリのハサミについた星は村瀬、毒針は木崎である。残りの7人は二人を慕って集まってきた連中で、無理にメンバーを増やすようなことは一切やらなかった。
あの頃は何をやるにも木崎と一緒だったし、永遠に二人でバカ騒ぎを続けていけると信じていた。
その木崎も、今はもういない。
メンバーだった弟分たちも、誰一人としていない。
生き残ったのは村瀬だけだったのだ。
村瀬は大きく息をつくと、もう一度足元のサソリを見た。
「単なる偶然だ」
声に出してそう言ってみた。そう信じたかったからだ。
踏ん切りをつけるように息を吸い込むと、村瀬はサソリに背を向けた。
毎日通るこの場所に、嫌なものを見つけてしまったものだとつくづく思う。だが、忘れてしまうのが一番だ。いずれサソリは通勤に急ぐ人々の靴の下でかすれ、消えていくに違いない。
バス亭に出る道に足を向ける。
スーツの裾がすっかり濡れてしまって、足にまとわり付く。亡者が足にしがみ付いているような冷たさだった。
いつもよりかなり早足になって大通りに出ると、右に曲がってバス亭を目指した。
バス亭には誰も人がいなかった。ルーフの下に逃げ込み、村瀬は傘を閉じた。傘の先へと一斉に流れ集まった雨水が、音を立ててアスファルトに落ちていった。
「15分待ちか……」
村瀬は腕時計と時刻表を見比べてつぶやいた。見上げると、半透明なルーフの向こうに街灯の光が薄ぼんやりしていた。
視線を下に落としてスーツの裾の具合を確かめようとした村瀬は、思わず声を挙げそうになった。
白いサソリが、そこに居た。
バス亭のルーフの下、雨に濡れていない乾いたアスファルトの上に、それは描かれていた。
薄明かりを反射させて、ほのかに浮き上がって見えた。7節の尾に、星のついたハサミと毒針。先ほど駅前で見たものと同じ、まごうことなきメタルスコーピオンズのマークだった。
全身をおぞましいものが駆け上がっていって、髪の毛まで逆立つような気がした。
自分の鼻息がひどく荒くなっているのがわかる。心臓の鼓動が激しくなって、血が頭にどくどくと流れ込む。
偶然だと信じ込みたい気持ちの裏で、これは間違いなく村瀬に対する何らかのメッセージであるという確信が生まれていた。
誰が、一体、何故。
サソリは嫌でもあの凄惨な事件を思い起こさせる。あの事件で生き残ったのは村瀬一人だというのに、一体誰が今になってサソリを描くというのか。
亡霊などというものを信じてはいない。信じてはいないが、これがこの世の者の仕業とは思えなかった。